感謝の香り (2021)          板に Mixed media / 35x35cm
感謝の香り (2021)          板に Mixed media / 35x35cm

画廊通信 Vol.240               魂の事

 

 

 詰まるところ「絵」は「人」だと思う。表現という行為が、精神を何らかの形象に転化する事であるのなら、作品とは即ち形象化された精神であり、ならば「絵」もまた顕現された画家の精神であって、結句は「人」そのものに他ならない。クライアントの意向が入る商業美術の分野においては、そんなシンプルな構図は通用しないのだろうが、それが純粋な芸術表現である限り、作品と作者は常に等号の関係を結ぶ。中にはあえて精神的な要素を排除し、理詰めの方法論だけで制作に臨む作家も居

て、当人はそれで「絵=人」という構図を、打ち破った

つもりで居るのかも知れないが、結果としてその作品は

「あえて精神的な要素を排除し、理詰めの方法論だけで

制作に臨む」、極めて作為的な人間像を映し出す。或い

は注目を集めるために戦略を練り、あえて奇を衒ったパ

フォーマンスを演ずるような作家も居るが、やはり結果

的にその作品は、奇を衒う事を表現と履き違えた、極め

て稚拙な人間像を顕わにする。斯様に表現とは、当人の

望む望まざるに拘わらず、否応なくその作者を露呈して

しまうものであり、そう考えると表現の高低浅深は、そ

のまま精神の高低浅深と言っても過言ではない。事実、

優れた芸術表現は、そこに或る掛けがえのない卓越した

精神を映し出すものだ。換言すれば、作品が全く未知の

作家に依るものであっても、優れた表現は必ずやそれを

見る受け手に、或る掛けがえのない精神をダイレクトに

伝え、自らが「本物」である事を無言の内に語る。それ

は、受け手の審美眼や鑑識眼といった問題ではなく、突

如否応もなく向こうからやって来る、圧倒的な体験とし

か言いようが無い。忘れもしない、本宮健史という作家

との出会いも、正にそのような圧倒的な遭遇であった。

 

 以前にも書いたので繰り返しになるが、本宮さんとの

出会いは2001年の春、東京国際フォーラムのアート

フェアにおいてである。22年も前の話になるが、当時

私は或る画廊を退社したばかりだった。つまりは失業中

という訳で、悠長に展示会など覗いている場合ではなか

ったのだが、取りあえずは何かのキッカケでもあればと

いう、かなりいい加減な思いで訪ねたのではなかったろ

うか。じっとして居られなかった、というのも有る。こ

の先どうやって食べて行けば良いのか、どうすればこの

仕事で生きて行けるのか、そんな底知れない不安で居て

も立ってもいられず、電車に飛び乗って辿り着いた会場

だった。しかし何処もかしこも、見事に詰まらないどう

でもいいような展示ばかりで、失意がいよいよ絶望に変

わりかけた時、私は不意に「光」を見つけたのである。

 騒々しい会場の片隅で、それは人知れず神秘の光を、

どこまでも深く透明な画面から、密やかにしかし強靭に

放っていた。深い深い青だった。時を止められた深海の

闇で、津々と慈光を放つかのような、その祈りにも似た

静かなる灯火に、私はただ魅せられて立ち尽くすばかり

である。人が見ていようがいまいが、そんな事はまるで

瑣事であるかの如く、ただひたすらに己の信ずる美を湛

えて、さながらそれは発光するコバルトの湖であった。

 先述の如く優れた絵というものは、必ずや何かを見る

者に語りかけて来る。おそらくそれは描いた当人も与り

知らぬ声であり、見る者の恣意的な解釈に過ぎないのだ

ろうが、そうであったにせよ、優れた一枚の絵が見る者

の心に、決して間違った声を響かせる事はないだろう。

感動を言葉で表わす事は出来ないが、時に人は感動の中

で、自らに語りかける言葉を聞く。己の良しとする道を

ただ真摯に歩め──いつしか寡黙な画面の彼方から、そ

んな声が聞こえたような気がした。それはまた「己の良

しとする道をただ真摯に歩み来た」画家だからこそ発し

得る、真実の言葉であると私には思えた。帰りの電車の

中で、私は不思議に満ち足りていた。朝の失意と不安は

いつの間に消えて、だからと言って何かの展望が開けた

訳でもなかったが、然りながら「大丈夫だ」という内な

る声が、自らを在るべき場所にしっかりと定めている。

 本宮健史──私と同年齢のこの芸術家に、私は深く癒

され、救われていた。この時の体験、決して忘れない。

 

 以上の回想は、過去の拙文から抜粋して加筆したもの

なので、今こうして読み返してみると、その頃の大仰な

言い回しが少々鼻に付くのだが、当時の素直な感想には

違いない事もあり、そのまま掲載させて頂く事にした。

 この当時から本宮さんの作風は、抽象をメインとしな

がらも諸処に具象的なフォルムも含む、或いは抽象であ

りながらも何処か具象的なフォルムを喚起させる、言わ

ば抽象と具象の境界(というものが有ればの話だが)を

自在に行き来するような表現で、それは20年以上を経

た現在でもさほど変わらない。ここで私は「抽象」「具

象」という用語をかなり安易に用いているが、本宮さん

の本質に真摯に迫ろうとすれば、この辺りの曖昧な言葉

遣いを再考する必要があるだろう。「具象」は字義通り

で問題は無いとして、一方の「抽象」という言葉は、通

常「具象」の対義語として、つまりは「非具象」という

意味で使われている訳だが、改めて辞書に当たってみる

と、それはこのように説明されている──「事物や表象

の或る要素や性質に着目し、それを抜き出して(抽き出

して)把握する思考形式」。この定義を美術表現に当て

はめると、抽象とは即ち「抽出された形象」という意味

になろうか。画家は、対象から彼固有の内的なフィルタ

ーを通して、彼だけが見出した或る形象を抽出する、そ

れが美術における「抽象=abstract」という言葉の本義

だとすれば、通常に用いられる意味とは凡そ異なるもの

だ。「本来あらゆる美術は抽象的である」──これは英

国の評家ハーバート・リードの言葉だが、上記のように

考えれば、当然そのような結論に到ってもおかしくは無

い。これは一見極論にも思えるが、しかしながらやはり

正論だと思う、固有の形象を抽出する作業を「抽象化」

と呼ぶのなら、そもそも美術表現とは抽象化の行為その

ものだろうから。その観点で今一度顧みると、本宮さん

が自らの制作に「具象」「非具象」の区別を設けない、

その所以が分かるのではないか。そもそも本宮さんの描

くモチーフは、常に自身の内面に在る。そこから固有の

フォルムを抽出してゆく行為が、即ち本宮さんにとって

の「制作」であるのなら、それが何らかの具体的な事物

として象徴化されれば「具象」となり、片や具体的な形

象を取らずに、内的なフォルムのままに描き出されれば

「非具象」となる、それだけの違いであって、いずれに

せよ両者共に「抽象化」の作業である事には、何ら変わ

りがない。故に、本宮さんの表現は「抽象」という言葉

の持つ本来の意義の、確かな具現を提示するのである。

 

 先月の画廊通信で「絵画」と「漫画」の違いを論じた

際に、絵画が現実との濃密な交渉から生み出されるのに

対して、漫画は端から2次元上の仮想空間を領域とする

ため、現実とのコミットを一切必要としない事から、対

象の自在な変容を可能とする代わりに、リアリティーの

欠如を招かざるを得ないと記した。この推量を敷衍すれ

ば、一般に「抽象画」と呼ばれるジャンルに何故こうも

本物が少ないのか、その理由もまた推量出来るだろう。

つまり数多の抽象画が、非具象的なフォルムの案出や、

それを用いたパターンの模索や、それらを宰領する方法

論等々、いわゆる「机上の空理」から生み出される事を

考えた時、その制作過程上で、現実との交渉は極めて希

薄にならざるを得ない。それによって生じたリアリティ

ーの欠如(漫画の場合と同じ構図だ)、それこそが抽象

画に、斯くも詰まらないものが多い要因ではないのか。 

 同じ先月の通信に、私はこのように書いた──絵画は

常に「存在」とのコミットを命題とする。たぶんそれは

安閑な交渉には非ず、着地点の見えない手探りの葛藤を

余儀なくされるものだろう。だからこそ、そこにはリア

リティーが宿り、作品は否応のない実在感を放つ。「そ

こに在る」というこの感覚は、やはり絵画だけの齎し得

る特権であろう──と。思うに、これは具象画のみなら

ず、そのまま抽象画にも言える事ではないか、それが優

れた表現である限り、抽象画もやはり特有のリアリティ

ーを孕むものだから。しかし──と論者は言うだろう、

「存在との真摯な葛藤が有ってこそリアリティーが生ま

れるのだとすれば、そもそも現実との交渉を持たない抽

象画において、リアリティーは何処にその源泉を求めれ

ば良いのか」と。私ならこう答える──リアリティーの

源泉は、作家自身の「精神」に在るのだと。精神もまた

「現実」であり「存在」なのだから、精神との直向きな

交渉・葛藤に専心すれば、そこには必ずや確かなリアリ

ティーが宿る筈だ。対して先述した「机上の空理」は、

所詮知的な遊戯に過ぎない、よってそこにリアリティー

の宿る筈もない。その作家が、精神と「戯れて」いるの

か、それとも「闘って」いるのか、そこにリアリティー

の有無を決定的に分かつ、一つの鍵が潜むのだと思う。

 

 精神との真摯な交渉、真剣な葛藤、そこから見えざる

何かを希求する事──先日他界した大江健三郎(比類の

ない巨大な存在だったと思う)は、それを「魂の事」と

呼んだ。「魂の事を始めなければならない」、そんな意

味の言葉が、幾度かその著作にも記された。翻って今、

本邦の美術シーンに欠けているものを考える時、それは

小説家の言い方を借りるなら、正に「魂の事」という一

言に尽きるだろう。前々頁に、本宮作品と初めて出会っ

た印象を「その祈りにも似た静かなる灯火に、私はただ

魅せられて立ち尽くすばかりである。(中略)ひたすら

に己の信ずる美を湛えて、さながらそれは発光するコバ

ルトの湖であった」云々と記したが、未知の作家を見る

において、そんな有無を言わせぬ圧倒的な出会いを、私

はもう随分と久しく経験していない。中には自らの赤裸

々な感情を、大胆に表現したかに見える作品も有るけれ

ど、冒頭に述べた如く「絵」がそのまま「人」なのだと

したら、そこには見せかけの懊悩に酔うかのような未熟

の感性は有っても、自らの精神とひたすらに向き合い、

何処までも掘り下げるような人間は居ない。対して、本

宮さんの作品を眼前にする時、私はいつもそのような真

摯求道の人間と、確かに相対している感を抱く。再度申

し上げれば、自らの精神とひたすらに向き合い、それを

何処までも掘り下げてゆく人、そして遥かな深層へと分

け入った果てに、或る普遍の水脈が流れるだろう事を信

ずる人、そんな偽りなき真誠の人間が、そこには確かな

リアリティーを湛えて存在している。本宮健史という稀

有の画家が、若き日より直向きに為して来た事、そして

これからも生涯を懸けて為しゆくだろう事、言うまでも

なくそれはただ一つ──「魂の事」、他には何も無い。

 

 先日、バルセロナから作品画像が届いた。全21点、

今回も強力なラインアップである。暫し見ていると、か

つて本宮さんの絵から響いたあの声が、鮮明に甦るよう

だ。そしてあれから20数年を経た今、また新たな言葉

が、作品から聞こえて来るように思える。それは私のみ

ならず、私より若い世代にも、そして上の世代の方々に

も、等し並みに語りかけて来る力強い声だ。沈黙の中か

ら響き出す、微かにして確かな言葉、私にはそれがこん

な呼び掛けに聞こえる──「さあ、魂の事を始めよう」

 

                     (23.03.18)