沈黙の音 (2022)      混成技法 / 6F
沈黙の音 (2022)      混成技法 / 6F

画廊通信Vol.241          理由なきものに

 

 

 村上春樹の短篇に「レーダーホーゼン」という作品がある。レーダーホーゼンとは、ドイツ南部の男性が着用する、サスペンダー付きの半ズボンの事。この小品は、その半ズボンを契機に運命が変わってしまう、或る夫婦を描いた物語である──と、一応はそう要約出来るのだけれど、果たしてこれを「物語」と呼べるのかどうか。ついそんな疑問が湧いてしまうのは、言うなればこれが「話にならない」話であるからだ。こんな内容である。

 

 主人公は50代の既婚女性。かつては夫の浮気性で不

 和の時期もあったが、現在は比較的親密な関係だ。社

 会人の娘が一人。ある日ドイツに住む妹から、夫婦で

 遊びに来ないかという誘いが来る。夫は仕事で休暇が

 取れなかったため、彼女一人で行く事になり、渡航に

 際して土産を訊ねたところ、夫はレーダーホーゼンと

 答える。ところが彼女はドイツに渡ると、何の連絡も

 なく滞在を大幅に伸ばし、やっと帰国した後も身内の

 家に寄宿したまま、二度と家には戻らなかった、土産

 どころの話ではない。更には夫に電話で「離婚して欲

 しい」と告げ、何が何やら判然としないままに、夫も

 同意せざるを得ない成り行きとなった。それから数年

 を経て、彼女は娘と顔を合わせる。母親の誠に身勝手

 で不可解な行動に、深く傷付いていた娘に言う事には

 「どう話せばいいのか、私にも分からなかったのよ。

 そもそもはあの半ズボンが原因だったの」、そして二

 人の入った喫茶店で、奇妙な体験が初めて明かされる

 ──ドイツに着いた彼女は、夫の土産を買うために、

 早速レーダーホーゼンの店を探して、近隣の町を尋ね

 たのだと言う。街並みは美しく静かで、今までの日常

 は地球の裏側に遠のいていた。店に入り来意を告げる

 と、意外にも店の老人は「本人が居ないと売る事が出

 来ない」と言う。客の体型に合わせたオーダーメイド

 だけを扱う、それが店の方針だから、というのがその

 理由だった。それなら、と彼女は一計を案じる、「主

 人にそっくりの体型の人を見つけて来て、その人に合

 わせて作ってもらってはどうか」と。あくまでも例外

 ですが……という老人の了承をもらい、彼女は道行く

 通行人の中から、夫に体型のそっくりな紳士を運良く

 見つけ出し、言葉の通じないままに店へ連れて行く。

 老人に事の経緯を聞いた彼は「よろしいそういう事な

 ら」と、気持ち良くモデルになる事を承知して、その

 場でレーダーホーゼンを穿き、細かい採寸の調整に協

 力してくれる。それから30分程の間、店の老人と半

 ズボンの紳士が、ドイツ語で冗談を言っては笑い合う

 光景を、彼女は眺めていたのだと言う。「その作業が

 終わった時、私は離婚を決意していたの」、何故そう

 なってしまったのかは、彼女自身にも皆目分からず、

 だから人にも話せなかったらしい。ただ、夫とそっく

 りの男性がレーダーホーゼンを穿いて、楽しそうに体

 を揺すって笑っているのを見ている内に、自分の中に

 漠然と有った一つの思いが、次第に明確になるのだけ

 は感じていた。「そして、自分がどれほど激しく夫を

 憎んでいたのかを、私はその時に初めて知ったのよ」

 

 というのが作品の概要だが、この短篇に寄せて、どの

程度のコメントが出ているのかを見てみたところ、大学

の先生方や評論家による種々の論考が、予想外にアップ

されていたのには少々驚いた。やはり、読者に何の解決

も示さない村上春樹特有のテクストが、学者特有の解釈

熱を刺激するのだろう。個々それぞれ様々な読解が有っ

た中で、比較的多数を占めていたものが、レーダーホー

ゼンを主人公である女性の暗喩と見る解釈である。一例

として或る論文を抜粋すると──ドイツのレーダーホー

ゼンを売る店で彼女が見ていたものは、彼女自身の姿で

あったと言うべきであろう。夫に「そっくりの体型」の

ドイツ人に合わせるために、店の人によって「色んな所

を伸ばしたり縮めたり」されているレーダーホーゼン、

それはそのまま、夫によって「色んな所を伸ばしたり縮

めたり」されて来た、今までの自分の生の形に他ならな

かった事に、彼女は思いがけなく気づいてしまったのだ

──という具合に。つい「なるほど……」と納得してし

まいそうな上手い講釈だが、しかしながら村上春樹の文

学に親しむ人であれば、彼が自らの創作に、そんな明確

に分析し得る含意を仕込むタイプではない事ぐらいは、

誰もが知る常識だろう。確かに、そう考えれば物語に筋

が通り、辻褄が合うのだが、たぶん作家本人はそんな辻

褄合わせなどは、微塵も考えてなかっただろうと思う。

 想像してみよう──彼女は今、レーダーホーゼンの店

で、夫とそっくりの男性が半ズボンを穿いて、楽しそう

に体を揺すって笑っているのを見ている。彼がどんな体

型であったかは知らないが、もしかすると中年の男性に

有りがちな、少々腹の出た体型だったのかも知れない。

とすればその姿は多少の滑稽味を帯びて、そこに重なる

夫の姿もまた、何処かしらコミカルに思えた事だろう。

そんな連想を取り留めもなく巡らせている内に、いつし

か心奥に隠れていた或る思いが浮上して、突如彼女は、

疾うに夫を愛していない自分に気が付くのである。この

時彼女は「あのレーダーホーゼンは私だ」と、本当に思

ったのだろうか。いや、そんな冷徹な分析を可能とする

論理的な心境に、彼女が在ったとは思えない。彼女はた

だ、ぼんやりと放心していたのだ。意識的ではないのな

ら、無意識的にそう感じたのではないか、という見方も

有るだろうが、しかし「無意識的に感じる」とは具体的

にどういう事か、むしろ無意識こそ論理とは程遠い領域

ではないのか、そう考えるとその説も、甚だ曖昧で疑わ

しい。結局、ドイツ人が半ズボンで笑っている光景と、

突如あらわになった夫への憎悪とは、何一つ因果関係が

無いのである。「それなら、どうして彼女はそんな心理

に到ったのでしょう」と、あらためて問われたとしたら

「そこに理由はないのです」と、答えるより他ない。お

そらく作者は、先述のような暗喩を意図的に仕掛けるよ

りは、単に「人生にはこんな事も有るんですよね」と、

そう言いたかっただけなのではないか。故にここでは、

通常の物語に有効な「分析」も「解釈」も機能しない、

それが冒頭で「話にならない」話と述べた所以である。

 

 異性の或る一瞬の仕草を見て、不意にその人を好きに

なってしまった(その逆も有り得るが)、或いは何の変

哲もない日常の一瞬を境に、失意の底から不意に立ち上

がる事が出来た、そんな経験は多かれ少なかれ、誰にで

も有るのではないだろうか。村上春樹が物語った通り、

人生にはそんな事が「有る」のだ。しかもその時、そこ

には「理由」というものが無い。何故なら「理由」が知

性的な領域の概念であるのに対して、上述の如き体験は

純粋に感性的なものであるから。普段、感性は五感と密

接に結びついて機能しているが、いわゆるレーダーホー

ゼン的な感性は、五感を介さずに生起する。むろんその

時も何らかの感覚は働いているのだが、その感覚からの

情報が直接の要因となるのではなく、むしろそれは外界

の刺激とは関係しない。そのような五感に依らない不思

議な感覚を、通常私達は「直感」と呼んでいる訳だが、

試みにカントが経験に依らない先天的な認識を「純粋理

性」と呼んだ顰みに倣えば、これは言わば「純粋感性」

とでも言うべきものか。そう考えると、長々と論じて来

た「レーダーホーゼン」という作品は、正しくこの直感

=純粋感性を巡るエピソードであって、前述した諸先生

方の牽強付会・断章取義を極めた論理的考察も、それは

それでその見事なこじつけの手腕には感嘆するのだが、

反面どれもこれもが嘘臭い。これは文学のみならず美術

の分野にも共通する事例で、作家論・芸術論・情勢分析

等、或いは一般的な美術関連書籍も含めて、その大方は

屁理屈の範疇を出ないものが多く、芸術表現の真髄に迫

るものは少ない、偉そうな物言いで申し訳ないのだけれ

ど。何故そんな状況に陥るのかと言えば、優れた芸術表

現ほど知性の領域を足場とはせず、感性領域なかんずく

純粋感性=直感を土壌とするからだ。美的衝動、詩的狂

気、霊的着想等々、いずれも直感の異名に他ならない。

 

 さて、やっとの事で本題に繋がる訳だが、榎並和春と

いう画家はこの不思議な感覚を、制作の「土壌」にする

というよりは、積極的に「手法」として用いる。何度も

この場に記した事ではあるが、榎並さんの制作は通常の

画家とは凡そ異なるものだ。大概の画家が真っさらなカ

ンヴァスと向き合う前に、大凡の完成予想図もしくは設

計図を脳裏に描いているのに対して、榎並さんの場合は

敢えて一切の計画を持たず、よってそこに何が描かれる

のかは自分でも皆目分からないという、正に「0」地点

からの出発を自らに課すのである。何処に歩いて行くの

か、という目的地点も見えず、何処まで歩いて行けるの

か、という可能距離も分からない、そんな全てが未知数

の道程を、唯ひたすらに手探りで歩いて行く、それが榎

並さんの歩き方だ。具体的には画面に壁土を敷いたり、

黄土を塗り重ねたり、弁柄を染み込ませたり、金泥を掛

け流したり、種々の布地を貼り込んだり、その上に更に

顔料を塗り込んだり、果てはせっかく塗ったものを消し

潰したり、ガリガリと刮げ取ったり、挙げ句にバリバリ

と引き剥がしたり、通常の神経の持ち主から見れば、一

体何をやっているのか分からない、何しろ「絵」らしき

ものがなかなか見えて来ないのだから。しかし、このい

つ果てるとも知れない作業こそが、榎並さんにとっての

制作なのである。画家は「待って」いるのだ。ただ待つ

だけでは何も来ないから、積極的に仕掛けながら待つ。

何を?──「直感」の訪れを。それは画面に見出した何

らかのフォルムを契機として、或る瞬間にゆくりなくも

画家の脳裏へと降り立つ。その気配を鋭敏に捉えた画家

は、おもむろに描線で何かの輪郭を探し始める。模糊と

した何かが、作家の前に現れつつあるのだ。いつしかそ

れは人らしい形を取り始め、やがて画面に楽師が現れた

り旅人が訪れたり、何らかの動物になったりもする。或

いは人だと思えたものが違う形になったり、一人だと思

った所にもう一人隠れていたり、榎並さんは来るべき出

会いを手探りで捜しながら、描線を大胆に引き続ける、

未知を模索する精神の触手のように。そして全てが眼前

に現われた時、作家は筆を置くのだろう。幾重にも堆積

した絵具が、風化した古い壁のような趣を湛える画面、

その上に中世のイコンのように浮かび上がる人物・動物

・建物・樹木等々、それら榎並さんに特有のモチーフは

全て画家の直感から齎された、よって当の画家さえもが

予期しなかったであろう、未知からの客人なのである。

 

 この絵は何を表わしているのか──そう問われて一番

困るのは、画家自身に違いない。作者はこのモチーフを

何故そこに描いたのか、どんな意味を託したのか、常に

人は答えを求めたがる。しかし答えは無い、直感に理由

は無いのだから。そして絵を見る私達もまた、それを直

感で捉える。よってその絵に何故惹かれるのかは、私達

自身にも分からない。然りながらその掛けがえの無い出

会いは、時に見る者の生を変えるような力を持つ、あの

レーダーホーゼンが或る女性の生を変えたように。人を

真に動かすものは、そんな制御を超えた力なのだろう。

 

                     (23.04.10)