まなざし (2022)        Acryl / 3F
まなざし (2022)       Acryl / 3F

画廊通信 Vol.246        永遠の少女に寄せて

 

 

 古今東西「少女」というモチーフは、繰り返し繰り返し多種多様に描かれ、限りないヴァリエーションが生み出されて来た。それは何も絵画に限った事ではなく、文学においても歌曲においても、その例を挙げれば枚挙にいとまが無いのだから、そのように顧みる時、芸術家は何故「少女」を描くのか──という問いは、決して意義の無い設問とは言えまい。ここでまず考えるべき前提は「少女」という概念そのものである。まあ、私ほどの年齢になってみれば、有り体に言って「少女」も「子供」も然して違わない、同じような存在に思えてしまうが、しかし少々想像力を逞しゅうして、遠い昔にかつて自分

も少年であった頃の、かなり薄れかかった記憶を手繰り

寄せてみると、当時同年齢であった女子の中には、独特

の魅力を放つ少女が居た。大人にはまだまだ遠い年齢な

がら、未だ子供の領分に留まる少年から見れば、何処か

大人びて何やら神秘的なものさえ感じさせる存在、今に

して思えば、そのように「見えた」だけなのかも知れな

いが、しかし当時の少年にしてみれば、それは尽きない

魅力を津々と放ち続ける、この世に具現した「美」その

ものであった。思い返せば、その時の少女に寄せた想い

とは、思春期に入ってからの性的なものとは違って、美

しく聖なるものへの、より純粋な憧れのようなものだっ

たのだろう。ともあれ、かつての少年を遥かな夢へと誘

い、限りないときめきを与えてくれるような、そんな特

別な存在としての「少女」が居た、それは紛れもない事

実である。児童期から思春期へと心身が移行する、その

狭間に訪れる奇跡のような或る時期、それは極めて短い

時間ではあるが、おそらくは当人も意識しないままに、

今までは子供だった少女に不思議な魅力を齎す。卑近な

事例で申し訳ないが、妻の遥かな昔の写真を見た事があ

って、それは小学校高学年頃の一コマだったが、そこに

は凛とした気質を感じさせる清純な少女が写っていて、

自分で言うのも何だけれど、もし当時の私が同じクラス

に居たとしたら、間違いなく好意を寄せていただろうと

思わせる一葉であった。それが今は、こうなっている訳

だから、正しくそんな魅力は一時期のみ、後は年齢と共

に跡形も無く消え失せるものなのだ。こんな話をしてい

ると、数多いご婦人のお客様からお怒りを戴きそうなの

で、この辺りで已めておくが、芸術家にとって「少女」

とは、そんな特別の存在なのだと思う。そしてそれは、

たぶん作家の性別を超えたある種普遍的な少女性、言わ

ば「少女的なるもの」の表れなのである。その自ら思う

所の具体化として、作家は「少女」というモチーフに取

り組むのだろうが、ならばもう一歩踏み込んで「少女的

なるもの」とは何か、と問われると、それは作家本人で

も言葉にはし難いのではないか、むしろその問いに答え

るために画家は絵を描き、小説家は物語を虚構する訳だ

から。よってそれは私如きには手に余る問いなのだが、

愚見を承知の上で敢えて申し上げれば、即ち「純化され

た詩の如きもの」とでも答え得るだろうか、或る一時期

のみに咲く泡沫の花であるからこそ、少女はより一層凝

縮された詩情を、我知らずその身に纏うのである。なら

ば「詩の如きもの」とは何か、そもそも「詩」とは何か、

と突っ込まれたらもうお手上げなのだが、先日たまたま

読んだ文学者の講義録に、正に「詩」について述べた一

節が有ったので、この際は私なんぞの詰まらぬ浅見より

は、稀代の文豪にその達見を語ってもらおうと思う。以

下はJ・L・ボルヘス「詩という仕事について」から。

 

 美学関係の本を覗くたびに私は、一度も星を眺めた事

 のない天文学者の著作を読んでいるような、妙な気分

 になった覚えがあります。つまり、詩がまるで苦役で

 あって、真実のそれ、即ち情熱と快楽ではないかのよ

 うに書かれている訳です。そこで、学者の説く定義は

 敬意をもって受け入れつつ、それからその先にあるも

 のを探求する、我々の場合で言えば詩を探求し、生を

 探求する訳です。私の信ずるところでは、生は詩から

 成り立っています。詩とは、ことさら風変わりな何物

 かではない。いずれ分かりますが、詩はそこらの街角

 で待ち伏せしています。いつ何時、我々の目の前に現

 れるやも知れないのです。(中略) 無理に定義しなけれ

 ばならないとしたら、私はたぶんこんな言い方をする

 でしょう、「詩とは巧みに織り成された言葉を媒体と

 する、美なるものの表現である」と。しかしこの種の

 定義は、辞典や教科書には十分かも知れませんが、我

 々にとってはやや説得力に乏しい、つまりもっと大事

 な何かがある筈です。その何かに励まされて、我々は

 詩を書く事を試みるだけでなく、詩を享受し、詩の事

 なら何でも心得ているという気にもなるのです。これ

 こそ詩とは何であるかを、我々が「心得ている」とい

 う事です。非常によく心得ているがために、かえって

 他の言葉で定義できない。コーヒーの味を、黄色を、

 赤い色を、或いは怒りの、愛の、憎しみ等の意味を、

 我々が定義できないのと同じです、こうしたものは、

 我々の内部に深く根ざしているが故に……。私には非

 常に適切に思える聖アウグスティヌスの言葉を、ここ

 に引用しましょう。彼はこう言っているのです、「時

 とは何か? 人々にそう訊かれなければ、私はそれを

 知っている。人々にそう訊かれれば、私はそれを知ら

 ない」、私も詩について、同じように感じています。

 

 今回で二度目の個展となる増田さんの新作は、昨年に

続いて全て女性像である。中でも「少女」を描いた作品

が多くを占める訳だが、現在の美術シーンを概観してみ

ると、少女をテーマとする女性作家は随所に散見され、

取り分け若手作家にそれは顕著だ。少女のような作家が

少女を描く訳だから、押し並べてそれらは自己告白・心

情吐露といった様相を呈する事になり、不安・憂鬱・懊

悩・悲傷、或いは憧憬・夢想・陶酔・恋慕といったよう

な感情が、自画像と思しき少女像を通して主張される。

実は今、前文に「少女像を通して表現される」と書いた

ものを、暫し考えた末に「主張される」と訂正したのだ

が、これはやはり「表現」と「主張」は違うと思ったか

らである。おそらく「主張」とは、作家個人の一方的な

発信に過ぎない。自己告白も心情吐露も、それはそれで

有意義な行為かも知れないが、それが受け手の感性に届

かなければ、単なる無意味な行為で終わってしまう。そ

れが受け手に届いてこそ、つまりは見る者が作家の発信

を受信し得てこそ、それは初めて「表現」という有意義

の行為に昇華するのである。思うに、昨今巷を賑わせる

若手作家の少女像には、未だ「自己主張」の域を出ない

ものが、極めて多いのではなかろうか。失礼、悪い癖で

また偉そうな物言いになってしまったが、そう申し上げ

た以上明確にしておかなければならないのは、作家の送

信が受信可能であるか不能であるかの違いは、いったい

何処に有るのかという問題だ、所詮そこにこそ「表現」

と「主張」とを分かつ、或る要因が潜むのだろうから。

 前頁で私は「少女的なるもの」という言葉の意味する

ものを「作家の性別を超えたある種普遍的な少女性」と

述べたが、この「普遍的」という良く使われる言葉につ

いて、その語意に改めて当たってみると、辞書にはこの

ように出ている──「全てのものに共通している事。あ

る範囲に属する全ての事物に、共通して存在する性質や

概念」。これを精神の領域に当てはめれば「人心に共通

して流れるもの」といったような意味合いになるのだと

思うが、つまりは或る何物かが流れているだろう共通の

領域=場所にまで降りて行かなければ、普遍には辿り着

かないという事だ。それは譬えれば、有りと有る人心の

奥底に潜在する、地下水脈のようなものだろうか、作家

はそこまで自らを掘り下げてこそ深い水脈に到り、それ

は見る者と共通した水脈であるが故に、ダイレクトに受

け手の心へと流れ込むのである。作家の送信が届き得る

か得ないかの差違は正にその一点に有り、届き得て初め

て、それは「表現」として成立する、数多の若手作家に

よる少女像と、増田さんの描き出す少女像との違いも、

正しくそこに有るのだと思う。きっと誰の心にも密やか

に流れるのだろう「少女的なるもの」、それを増田さん

の描く少女達は、柔らかに揺らして喚起するのである。

 

 今回の案内状を作成するに当たり、作家から送付して

もらった作品画像を一見して、私は眠らない月夜に密や

かに集い合う、少女達の誰知らぬ夜会を思った。何を想

うのだろう、物憂げな少女達がそれぞれの佇まいで、静

寂の中にひっそりと寄り添っている。この作品自体がそ

んな構図である事に加えて、視野を広げれば展示会場そ

のものも、たぶん様々な少女達の集い合う、秘密の宴と

なるだろう。そんな魅惑のイメージを、最大限に活かす

言葉はないか、散々考えた末に辿り着いたのが、案内状

に記載した「秘められた夜のために」というタイトルで

ある。我ながら、悪くない出来だと思う。その下に記し

た、下手な詩のような文章は、あまり説得力の有るもの

ではなかったにせよ、言わば増田さんの世界に捧げるオ

マージュのようなものだ。これでもここに落ち着くまで

は、無い頭を絞りに絞って、数時間をかけたのである。

どうせいちいち読んでいる人など居ないだろうから、こ

の場でしつこく反復させて頂こうと思うのだが、考えて

みれば案内状を読まない方が、この長ったらしい通信な

どいちいち目を通す訳もなく、これも虚しい徒労に終わ

るのだろうけれど、再度蒸し返せばこんな文章である。

「眠らない夜の扉を開けて、もの想う少女達は密やかに

集う。その夜、月は中空にかかり、不穏な雲影にかげり

つつ、淡い微光を窓辺に落とした。誰知らぬ部屋では、

古い時計がいつの間に針を止めて、やがて何処からか、

終わりなきノクターンの流れる時、ヴェールを彩るアラ

ベスクの向こうで、少女達の秘めやかな宴が始まる」、

といった具合で、何やら気取った二流の叙情詩じみたも

のになってしまったが、それでも敢えてこの場に再掲し

たのは、増田さんの世界に特有の雰囲気をお伝えするに

は、理屈めいた解説文よりは下手な詩の方が、まだ得策

かと思ったからである。ここには何の理屈も要らない、

あの「少女的なるもの」の豊かな表徴として、多様に描

かれた永遠の少女達は、見る人の心奥に脈々と流れる地

下水脈に、薄れた記憶を静かに揺さぶる新たな水流を、

密やかに巻き起こしてくれるに違いない。その時人はあ

の日の少女となり、かつて少女に魅せられた遠い記憶も

また、あの日の少年を活き活きと呼び起こす事だろう。

 

 極言すれば、芸術表現は「女性的なるもの」の為せる

業だと思う。絵を生み出す、歌を生み出す、物語を生み

出す、この「生む=産む」という行為は正に「女性的な

るもの」の象徴であろう。むろん「少女的なるもの」も

その中に包摂されるのだから、その本質としての「純化

された詩」もまた、常に新たな表現の湧出を孕む。前述

した文豪はその原理を、いみじくもこう語っている──

詩の「初めて」の読みこそ本物であって、以降はその印

象の繰り返しに過ぎないと信じられがちですが、それは

単なる思い込みであり、まやかしです。つまり詩は、常

に一回限りの新しい経験であると言えるでしょう。私が

一篇の詩を読む度に、その経験が新たに立ち現れる。そ

して、これこそが「詩」なのです (J・L・ボルヘス) 。

 

                     (23.09.04)