アトリエの床 (2023)     油彩 / 10F
アトリエの床 (2023)     油彩 / 10F

画廊通信 Vol.248             見者の眼

 

 

 10数年ほど前の話になるが、東京大学の博物館が刊行する或る小冊子を読んで、正に「痺れるような」共感を覚えた事がある。このような読書体験はそうそう有るものでは無いので、未だ強く印象に残り続けているのだが、それは遠藤秀紀という同館の教授が、自らの企画した特別展に際してのコンセプトを、詳細に記したものだ

った。以前にもその抜粋を取り上げた事が有ったが、昨

今の美術シーンに蔓延るウンザリするようなポピュリズ

ムへの、痛烈かつ痛快な批判としても読めるので、改め

てこの機会に引用させて頂きたく思う。以下は、東京大

学総合研究博物館ニュース「Ouroboros」Vol.14から。

 

 展示会場を企図するに当たって、最初から立ち去って

 もらいたいのはまず文字であった。館長挨拶しかり、

 展示趣旨しかり、痒い所に手が届く解説文しかり、世

 間の展示場は文字の導入に余念がない。こうした必ず

 と言っていいほど存在するお約束ごとの全てに、私の

 展示場からは真っ先に退場いただいた。もともと展示

 物に添えられる文字は、中世封建ヨーロッパの貴族の

 戯れを、他人に見せびらかすための添え物だったが、

 ここ日本では旧憲法下の時代に、官製博物館や美術館

 の枠組みの中で、ぎりぎりの展示演出を担うものにま

 で変化を遂げた。が、戦後は右肩上がりの経済情勢と

 GHQ主導の中途半端な民主化を通じて、博物館の展

 示場は、官と産が主となり学が従属する形を通例とす

 る、公共事業・観光振興の場として回転を始める。む

 ろんそこで学界は、より良い博物館を模索して展示の

 水準を先導することは有り得たが、教育の自治が確立

 されなかった戦後社会教育の体制が生み出す展示場に

 は、おおよそ検定済み教科書や学習指導要領の本質を 

 超えるほどの文字が機能することは難しかった。こう

 して展示場の文字は、不幸にして、創造と表現の場と

 いうよりは、ただ無機質以下の情報伝達手段と化し、

 単純に無意味であるか、ポピュラリズムを親切心で繕

 うものとして、展示場に飾られた。そうした文字は、 

 展示の作り手や来館者の精神世界に対して貢献したの

 ではなく、孫請け看板業者の多少の生活費に化けるに

 留まったと言えるだろう。簡単に言えば、巷の博物館

 の文字の99.999%までは、それが経済的に余裕のあ

 る実業家であれ、県庁から天下ってきた官吏であれ、

 仕事をした振りをしなくてはならない博物館の経営責

 任者と、グラフィック職人たちを下に抱えて、丸投げ

 博物館事業からマージンをかすめ取る大手展示内装企

 業と、そして最後には新しい発想を生み出し得なくな

 った展示制作者自身が、保身のために金銭を費やした

 愚慮と愚昧の副産物としてのみ存在する。名画の意匠

 を美術館が解説したとしよう。それは大いに嘲えるほ

 ど「親切」であろうが、元になった絵以上の力を有す

 る言葉などあり得ない。少なくとも、それを厄介な邪

 魔ものだと考える人間がごく普通に存在していること

 を、美術館は知るべきである。かくして、文字をもっ

 て説明すべきでないものを受け止めてもらうべく、私

 は文字列の排除に腐心した。学術と称した文字の付帯

 を大胆に忘れた時、展示場は真に物を見ようとする来

 館者に対して、無限に開かれた空間となるのである。

 

 如何だろうか。原典はかなりの長文ゆえ、任意の短縮

・省略を施した旨はご容赦頂くとして、ここで驚くべき

は、これが美術館のキュレイターによる発言ではなく、

博物館の学究による言説である事だ。「展示物に解説を

添える」という、誰も疑う事のなかった至極当然の慣例

に、敢えて真っ向から異議を唱え、結果的に会場からあ

らゆる文字を排除するという、驚愕のコンセプトを実現

したその展示形態は、正に画期的な試みだったと思う。

たぶん真の革命とは、新たなアイディアの発案よりは、

疑う事さえ忘れられた共通認識に、敢えて異議を立てる

事から始まるのだ。この時の展示には、私も実際に足を

運んだのだけれど、会場を圧倒的に占拠する無数の骨格

標本に度肝を抜かれると共に、文字が無い事によって意

味性を奪われ、結果ありとある部位が純粋な形象と化し

た動物骨格が、如何に雄弁な沈黙を見る者に伝播するか

を、正に目の当たりにした体験であった。このような強

烈な視覚体験は、文字による知識や学習など一蹴にする

ような、有無を言わさぬ強度を孕むものだ。おそらく展

示企画者は、そんな大原則を深く知悉する人だったと思

われるが、比べて視覚芸術そのものを対象とする美術界

の、救い難き堕落と劣化はどうだ。いみじくも前頁の抜

粋に「(名画の解説は)大いに嘲えるほど『親切』であ

ろうが、元になった絵以上の力を有する言葉などあり得

ない。少なくとも、それを厄介な邪魔ものだと考える人

間がごく普通に存在していることを、美術館は知るべき

である」との一節が有ったけれど、現今の美術館や美術

ジャーナリズムの極めて幼稚なポピュリズムを見ている

と、それを知る専門家など皆無に近い事実を、自らが露

呈して恥じないのが現状だ。視覚芸術を直接の目的とは

しない博物館でさえ、文字を排除した純粋視覚展示に挑

んでいるのに、視覚芸術の牙城たる当の美術館は、文字

の排除どころか文字だけではまだ不足とばかりに、更に

余計な音声解説を加えてご丁寧に専用機器までを備え、

挙句の果ては音声に芸能人を起用してそれを売り物にす

るという、唖然とする程に低俗な大衆迎合路線を邁進し

ている。むろん中には、そんな現状を憂慮する真摯な専

門家も居るだろうが、所詮は所轄の大本が文科省や文化

庁辺りに跋扈する、新自由主義とやらに侵されて文化機

関にまで利潤を課すような、芸術のゲの字も解さない低

劣無能の行政官僚なのだから、豚に真珠との故事を引く

までもなく、良識の声などは簡単に抹殺されるのが落ち

だ。いずれにせよこの現況では、美術館から清々と文字

の消える日は、悲しいかな未だ遥かな先の事であろう。

 

 いつの間に、また前置きが長くなった。誤解のないよ

うに申し上げておくと、ここまでの長広舌は何も美術状

勢の罵倒をしたかった訳ではない、現在の美術シーンと

は全くの対極に位置する「藤崎孝敏」という画家の在り

方を、明確にしたかったが故のものである。以前にも述

べた事だが、藤崎さんの絵画は見る者に沈黙を強いる。

と言うよりは、藤崎さんの絵画を前にすると、見る者は

自ずから言葉を失くす、と言うべきか。更に言うのなら

「見る」という感性の根幹には「沈黙」しか有り得ない

事を、藤崎さんの絵画はまざまざと体現するのである。

思うのだが、いずれ何処かの美術館で「藤崎孝敏展」の

開催される日が来た時、企画者はやはり通例のコマーシ

ャル戦略を賑賑しく展開し、会場には懇切丁寧な解説の

類いをこれでもかと貼り巡らせ、おまけに観覧者には人

気女優やタレントの甘ったるい音声を、啓蒙者然として

提供するのだろうか。おそらく、それら文字や言葉によ

る過剰なお膳立ての全ては、無惨にも藤崎さんの絵の前

で、無益な水泡と帰すに違いない。今一度、かの博物教

授の言葉を借りれば「それは大いに嘲えるほど『親切』

であろうが、少なくともそれを厄介な邪魔ものだと考え

る人間が存在することを、美術館は知るべき」なのであ

る。故に来るべき藤崎孝敏展は、会場から全ての文字を

排除した展示こそが相応しいだろう。綺麗さっぱり、タ

イトルや説明の文字は何も無い、作品名すら要らないか

も知れない、よって観覧者が自らの「純粋視覚」にしか

頼らざるを得なくなった時、正にその時こそ、藤崎さん

の絵画は真の輝きを放つに違いない。逆の視点から言え

ば、絵画があらゆる附加物を引き剥がされ、否応無しに

裸形を晒さざるを得なくなった時、初めてその真実の力

が顕になるのである。徹頭徹尾、純粋な視覚表現者であ

る事、それが藤崎孝敏という画家を貫いて来た、潔癖と

も言うべき在り方だ。それは極めてシンプルな位置だけ

れど、思うにその位置に留まり得る画家の、何と稀少な

事か。純粋な視覚表現のみが、見る者の純粋視覚を揺り

動かし、通常とは別種の「沈黙の言葉」を語る、再度繰

り返せば「そのような強烈な視覚体験は、文字による知

識や学習など一蹴にするような、有無を言わさぬ強度を

孕む」、そして見る者はいつしか言葉を失うのである。

 

 改めて問おう、純粋視覚とは何か? 答えて曰く、そ

れは言葉を忘れた者の「眼」である。かつてランボーの

語った「見者」には、古今東西様々な解釈があるようだ

けれど、美術におけるヴォワイヤンとは、正にそのよう

な稀有の「眼」を持つ人を言うのだろう。その意味で、

藤崎さんこそは比類なきヴォワイヤンなのだと思う。一

例を挙げれば、この数年の連続したテーマとなっている

「床の花」というシリーズがある。タイトル通り、床に

数輪の花が投げ置かれただけの作品だが、思えばこのよ

うな花の描き方が、かつて在っただろうか。それは時に

薔薇であったり、時に牡丹であったりするのだが、いず

れにせよ花冠だけが千切り取られ、いとも無造作に投げ

出されている。通常「花」と言った時、人は何かしら華

やかな、或いは可憐なイメージを思い浮かべるものだ。

よって多くの画家は、無意識的にそのイメージを言語化

し、結果「花」という概念に添った描き方をする。即ち

そこには、言葉が分かち難く介在しているのである。し

かし「床の花」は、どう見てもそのような視点からは描

かれていない。それはただ、そこに在る。如何なる意味

も無く、ただそこに在る。この「在る」という現象を徹

底して見つめ、それによっていつしか言葉を忘れ去り、

つまりは「花」という概念を忘却し、やがては無心の眼

と化して対する時、花は自ずから「存在」という不思議

を語り出すのだろう、これはそのような見者=ヴォワイ

ヤンの描いた花なのだ。いつか言葉に拘束されてしまっ

たイメージを、大胆に裏切ってこそ画家だろう、そこに

はステレオタイプに安住する多くの作家には及びもつか

ないような、厳しい観察者の眼が有るのだと思う。言う

なればそれは「実存」の眼である。哲学に勤しんだ訳で

もない者が、軽々に「実存」などと嘯くのもおこがまし

いのだが、否応もなく「在る」もの、更には「在る」事

の意味を剥奪してなお「在る」もの、それを実存と呼ん

で差し支えないのなら、藤崎さんの視点は正しくそこに

注がれている。だから画家は、決して美しい花を見てい

るのではない、花が眼前に「在る」という不思議に目を

瞠り、その相貌を何処までも冷徹に見据えるのである。

このヴォワイヤンの眼こそが、数多の画家と藤崎さんを

決定的に隔てるものだ。藤崎さんに特有の、あの異様な

実在感の要因も、正にそこに有るのではないだろうか。

 

 勝手ながら、今回の展示には「辺境のヴォワイヤン」

というタイトルを冠した。「辺境」とは、もちろん画家

の住む欧州の辺境を指す意味も有るが、もう一つには、

画家の美術シーンに占める位置を指す意味もある。顧れ

ばいつの時代でも、画壇の中央に一流の画家が居た例が

無い、常に真の表現者は異端に有り、辺境に位置するの

である。現在の美術界を風靡する、平和ボケとしか言い

ようのないふやけたトレンドの中で、藤崎さんの位置す

る辺境は、いよいよその輝きを増す事と思う。そして私

達もまた「見者」であるのなら、その辺境こそ実は紛れ

もない真の中枢であった事を、沈黙の中に悟るだろう。

 

                     (23.10.27)