裸婦 (2023)             コンテ, パステル, 水彩 / 45x35cm
裸婦 (2023)             コンテ, パステル, 水彩 / 45x35cm

画廊通信 Vol.251            白瓶の行方

 

 

 今回のドローイングによる展示は、案内状にも記した通り「裸婦」がメインとなる訳だが、先日アトリエにお伺いした折りに渡されたメモには、単に「裸婦」と題された作品の他に、「風景のような裸婦」「裸婦のような風景」と題された作品も含まれていた。ちなみに「風景のような裸婦」シリーズの一点が、今回の案内状に掲載した作品である。画面を食み出す程の堂々たる体軀を、後ろ向きにゆったりと横たえる裸婦、その豊かな量感を湛える肉体の緩やかな曲線は、確かに森さんがテーマとするあの北辺の砂丘が作り出す、なだらかな稜線の連なりを彷彿とさせる。片や「裸婦のような風景」と題されたシリーズもあって、その内の一点が右に掲載した作品

なのだが、これは森さんに特有の砂丘を描いた風景であ

ると同時に、後方に巨大な量塊となって畝るその滑らか

な稜線が、恰も横たわる裸婦のような曲線を呈する。こ

の「裸婦」と「風景」という全く異なるモチーフを、通

常の如く別々に分けて把握するのではなく、むしろ両者

から共通する特徴を抽出し、やがては合一したモチーフ

に融合させるという手法、それはそのまま森幸夫という

画家が対象を捉える、その「眼差し」を物語るものだと

思う。今回のラインアップには静物画も一点入っている

が、上記の手法に倣うのなら「静物のような裸婦」若し

くは「裸婦のような静物」といったシリーズも、場合に

よっては有り得たのかも知れない。そんな「モチーフの

融合」が何を意味するのか、実はその問いにこそ、画家

の視点を解明する手掛かりが潜むと思うのだが、どうだ

ろう。以下はそれに関する、私なりの拙い考察である。

 

 3年前の静物画展の折りに、この紙面でジョルジョ・

モランディを引き合いに出して、森さんとの共通点と差

異を論じた事がある。その際に書き漏らしたエピソード

があるのだが、それは「モランディのアトリエ」という

写真集に関しての話である。画家と同郷のルイジ・ギッ

リという写真家が、モランディの亡き後に生前のアトリ

エを撮影したもので、参考までに「須賀敦子全集(河出

文庫)」の装丁にも使われているので、既に目にしてい

る方も多いのではないだろうか。その装丁を見ても分か

るのだが、アトリエの卓上には画家がモチーフとしてい

た瓶や壺の類いが、所狭しと並べられていて独特の佇ま

いを見せる。目を凝らせばそこここに、画家が幾度とな

く描いていた特徴ある形状の容器が見出され、ああ、こ

れがあの水差しだったのか、これがあの器だったのか等

々と、静物画に登場するキャラクターの原形に出会う事

になるのだが、その内に見る人は、何故か真っ白に塗り

潰された瓶や壺が、散見されるという事実に気が付く。

よって元々の色は消し潰され、更には材質も見えない状

態にあるので、それが磁器であったのか、金属であった

のか、はたまたガラスであったのか、画家自身も全く分

からないという仕末になる。これは何も、誰かが嫌がら

せでやった訳ではないだろうから、本人の仕業である事

に間違いはないと思うのだが、さて、卓上のモチーフを

白く塗り潰しながら、モランディは何を考えていたのだ

ろう。また、そこに到った要因は何だったのだろうか。

 

 図録を見るとモランディは、油彩画の制作と併行して

銅版画の制作に、長年に亘ってかなりの労力を割いてい

る事が分かる。そのほとんどが、細密な描線による「ハ

ッチング」と呼ばれる技法で成されていて、この場合技

法の性格上、モチーフの材質表現は極めて困難であり、

更にはモノクローム版画のため、元より色彩は消去され

ている。この色も材質も再現不能であるという特質、こ

の一見は不自由な版表現の制約を、ジャンルを超えて油

彩制作に持ち込んだ時、それが色彩や材質からの解放を

意味し、却って表現に或る種の自由を齎す事に、画家は

いつしか気が付いたのではないだろうか。そしておそら

くはその時点から、画家はモチーフに対して色も材質も

必要としなくなり、必然的に現物のままでは視覚的に邪

魔になる事から、白く塗り潰すという過程に到ったので

はないか。即ちモランディにとっての版画とは、モチー

フを抽象化するに際しての実験の場であり、その成果を

油彩表現に応用し得た時に、画家の意図する新たな抽象

化は、大幅にその歩みを進める事が出来たのだと思う。

 更にもう一つの要因として、ちょうど時代を同じくし

て登場した新しい哲学、いわゆる「現象学」の影響を挙

げておきたい。エトムント・フッサールによって提唱さ

れた現象学は、私達が自明のものとして疑いもしない世

界認識を、実は様々な前提知や先入観に染まったもので

あるとして、そのような慣習的かつ曖昧な把握を一旦停

止して、自己の純粋な認識に立ち戻る事こそが、世界の

本質に到る道であると考えた。そのような思考法を「現

象学的還元」と呼ぶ訳だが、これを絵画制作に当て嵌め

てみると、通常は描こうとするモチーフに対して、作者

は或る「自明」を知らず知らずの内に作り上げている、

例えばビンとは硬質の物体であり、滑らかなガラスで出

来ていて、表面には光点を浮かべる、というように。し

かし、そのような自明の認識を潔く停止すれば、それは

画家によって画家の数だけ、それぞれに異なる相貌を見

せるだろう。モランディが同時代の哲学に、どれほどの

智見が有ったのかは知らない、しかし誰もが自明として

いた物の見方を離れ、独自の絵画的認識のみを信ずると

いうその姿勢は、言わば絵画制作上の「現象学的還元」

とも言えるだろうから、そう考えるとモランディには現

象学との接点が、必ずや有ったと思えてならないのであ

る。尤も、そのような現実的把握を離れた絵画的認識に

基づく制作は、一時代前のセザンヌが疾うに先駆してい

るのだが、そのセザンヌでさえモチーフの質感を一応は

残しつつ描いている事を思えば、モランディのそれはセ

ザンヌの起こした革命を、更に大胆に押し進めるものだ

ったと言えるだろう。こうしてビンはビンらしく描かね

ばならないという、絵画制作における自明の理を捨て去

った時、ビンは清々と白く塗り潰されたのだ、言わばあ

の「白く塗り潰す」という行為は、モランディによる現

象学的革命の、高らかな宣言であったのかも知れない。

 

 例によって話が長くなった。ただ、以上のようにモラ

ンディという存在を通り抜けてみると、森さんの考え方

がより深く理解出来るように思えるのである。そもそも

森さんは、モランディを誰よりも敬愛する画家であり、

故にその手法もモランディを継承する。これは森さんの

静物表現が、徹底して「フォルムと色のオブジェ」に還

元されている様を見れば、一目瞭然の事実だろう。更に

ジャンルを広げれば、画家が本領とする「北辺の風景」

もまた、現地に広がる実際の風景をおそらくは大きく逸

脱して、画家の絵画的認識による世界へと変換されてい

る。よって私は、森さんの描き出す静物画と風景画との

間に、それほどの差異を感じない。それは卓上か地上か

の違いであり、モチーフに関しても、卓上の容器か地上

の建物かの違いに過ぎないので、同じ平面表現として画

面を見据えれば、両者には僅かな差異しか見られず、寧

ろほとんど同じ表現として融け合うのである。3年前の

静物画をメインとした展示において、私はそのような静

物表現と風景表現の見事な融合を、実際に目撃するとい

う幸運に恵まれた。こうして話は「静物と風景」から、

冒頭に記した「裸婦と風景」へと移行する訳だが、思う

に森さんにおいては、この二者の間にもそれほどの差異

は無いのだろう。いみじくも「風景のような裸婦」「裸

婦のような風景」というタイトルが示す通り、それらは

森幸夫という画家を通した「現象学的還元」を経れば、

ほぼ同様のフォルムを呈する対象として、画面上に顕現

するのである。但し一点注目すべき事は、上述の展示が

油彩展であった事に対して、今回の展示はドローイング

展となるため、それ故に表現が異なる傾向を見せる点で

ある。以前にも書いた事だが、森さんは一旦「フォルム

と色のオブジェ」に還元した対象を、近年は画面を茫漠

と満たすアトモスフィアの中へと融解し、遂にはフォル

ムの僅かな痕跡しか残らないような、言わば具象表現の

限界にまで歩みを進めてしまっている。それは元々抽象

的な景観を見せる、砂丘をモチーフとした作品に顕著で

あったが、静物画の新作にも同様の傾向が見られた。画

面の中の打ち捨てられた家屋は、徐々に巨大な砂丘の波

に呑み込まれ、やがて大地と大気の狭間へと消え去る、

同様に卓上に置かれた瓶や器は、画面を深々と満たす沈

黙の中にその輪郭を失くし、やがて茫々たる暗霧の覆う

時空へと融け入る。このようなかつてない作風は、油彩

表現における一つの極限であると同時に、油彩だからこ

そ成し得る「ペインティング」ならではの表現なのだろ

う。対して「ドローイング」という手法を取るに際し、

画家はやはり「paint=塗る」という手法とは異なる表

現を「draw=引く」という行為に託す、それはドロー

イングを決して二義的な描法とは見做さず、長年をかけ

て真摯に取り組んで来た画家ならではの表現であった。

 

 森さんの裸婦ドローイングに際立つ特徴は、砂丘を一

つの量塊として捉えるのと同様に、肉体を固有の量塊と

して捉えた時の、その存在が醸し出す量感である。それ

は油彩画におけるモチーフが、画面を満たす空間に融解

し消滅しゆくのに対し、寧ろ画面を満たす空間に厳然と

その位置を占め、動かし難い存在としての量感を滲ませ

る。それこそ通常の画家であれば、油彩表現にこそ託す

だろうファクターを、逆に森さんはドローイング特有の

表現として追求する、これもまた自明の先入観を離れ、

独自の絵画的認識を出発点とする画家の、独創的な表現

と言えるだろう。以前、画家との歓談の中で「裸婦を油

彩で描く予定はありますか?」とお聞きした事がある。

森さんは間髪を容れず「その予定はありません」と答え

られた。つまり森さんにとっての裸婦とは、ドローイン

グのみの主題なのである。という事は、明らかに画家は

裸婦を描くに際して、油彩とは別種の着地点を求めてい

る。おそらくそれは、歳月をかけるに値する困難な地点

であると同時に、汲めども尽きない魅力に満ちた地平な

のだ、だからこそ森さんは数十年の星霜を経てなお、未

だ真剣な取り組みを已めないのだと思う。その地点に何

かを見据えるだろう画家の真意は、今回のドローイング

展に臨んで画廊に裸婦を掛け巡らし、周囲を裸婦に囲ま

れて佇んだ時にこそ、初めて見えて来るものかも知れな

い。だから私は来るべきその瞬間を、胸をときめかせて

待ち望んでいる訳だが、ここまで七転八倒して書いて来

た以上は、予測めいた見解の一つ位は記しておきたい。

 肉体という存在の量塊、おそらくそこに画家は、長い

歳月をかけて何かを秘めようとして来た。いや、画家は

量塊とその何かを、分かち難く融合しようとして来た、

そう言った方が正確かも知れない。その何かとは、きっ

と画家自身も言葉にし難いものだが、試みに「精神」と

言ってしまえば、それは余りに安易に過ぎるし、元より

それは「描ける」ものではない。とは言え、森さんの長

く厳しい道のりを思う時、倦まず弛まぬ歩みが我知らず

生み出すものが有る事も、また否定は出来まい。肉体と

いう量塊が、或る見えざるものを孕む時、そこから醸し

出される量感はそのまま存在の放つ声となる、それは必

ずや見る者に、或る掛けがえの無い響きを齎すだろう。

 

                     (24.01.19)