日本橋高島屋・美術画廊X       個展リーフレットから (2024)
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画廊通信 Vol.268             迷宮の詩学

 

 

 当店における北川健次展は、早くも今期で4回目とな

る。それに伴ってこの画廊通信にも、その都度切り口を変えながら、独創的な制作についての管見を書き散らして来たが、元々限られた抽斗しか持ち合わせないゆえ、そろそろ書くべき題材にも行き詰まったようである。そんな訳でここ数日、悶々と思いあぐねていたのだが、ふと新たなアイディアなんて持ち出さずとも、正攻法で行けばそれで良いではないかと、そう悟るに到った。なら

ば今までにも度々言及して来たテーマではあるにせよ、

北川芸術の根幹を成す「コラージュ」という手法につい

て、この際はもう少し掘り下げて論じてみたい。その糸

口として今回は、多少唐突ではあるけれど、象徴詩の先

駆として名高い明治期の或る詩作から、話を始めてみた

いと思う。以下は北原白秋「邪宗門秘曲」第一節から。

 

 われは思ふ、末世の邪宗、切支丹(きりしたん)でうすの魔法、

 黒船の加比丹(かひたん)を、紅毛(こうまう)の不可思議国を、

 色赤きびいどろを、匂(にほひ)鋭(と)きあんじやべいいる、

 南蛮の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍酡(ちんた)の酒を。

 

 この詩を一読して誰もが目を瞠るのは、その絢爛たる

光彩を放つかのような、奇態な言葉の羅列ではないだろ

うか。つい「目を瞠る」と書いたが、この詩の魅力はそ

の朗々たる響きとリズムにあると共に、漢語にルビを多

用した視覚的な効果にもあるだろう(原詩は全ての漢語

に、ひらがなのルビが振られている)。次々と繰り出され

る外来語の漢字表記によって、読む者は特異とも奇警と

も言える幻惑的な情緒を、弥が上にも掻き立てられる事

になるのだ。ちなみに現代語に変換すれば、でうす=天

主、加比丹=船長、びいどろ=ガラス器、あんじやべい

いる=オランダ石竹(カーネーション)、桟留縞=イン

ド原産の縞織物、阿刺吉=オランダ渡来の蒸留酒、珍酡

=ポルトガル産の赤ワイン、と云ったところだろうか、

いずれにせよこれらの耳慣れない外来語句は、極彩色溢

れる豊潤な異国趣味を放ちつつ、怪しげに謎めく異界の

境域へと、読者を強力に誘って已まない。この詩が、専

門家間でどう評価されているのかは知らないが、ウェブ

上をざっと流し見ただけでも「感覚的解放による悦楽の

みの詩である」「豊富な語彙と修辞を除けば、何も残ら

ない」等の否定的な見解が目に付く。たぶんこれらの評

家は「修飾ばかりで内容が無い」と言いたかったのだろ

うが、ならば問いたい、詩に内容は必要だろうか。詩と

いう形式が言葉を用いつつも、言葉にし難い或る趣を、

或いは言葉に出来ない何かを表す試みであるとしたら、

詩はそもそもが内容を指向しない、内容とは即ち言葉で

あり、故にその範疇を出る事は無いからだ。むろん、或

る意志を詩に託すと云う場合も有り得る、ただ、何らか

のメッセージや教訓を含まなければならないと云う限定

は、甚だしき謬見と言う他ない、それがもし正論だとし

たら、詩人は一人残らず金子みすずになってしまうでは

ないか、失礼、何も早逝の詩人を腐したい訳では無いの

で、悪しからず。と云う訳で、上記の批評は結果的に、

詩人の企みを図らずも見事に言い当てている、正に白秋

は豊富な語彙と修辞を駆使する事によって、豊潤な悦楽

と目眩く官能を目指したのであり、その感覚的な心理解

放こそが、白秋にとっての詩作に他ならなかったのだ。

 

 さてこの辺りで、白秋の詩体とは対照の妙が際立つ一

例として、もう一篇他作家の詩作を挙げてみたい、作者

はご存じ、北川健次である。周知のように北川さんは、

美術制作のみならず美術批評等の文筆面においても、数

々の著作で優れた仕事を残されているが、こと「詩」に

関しては独立した文章表現と云うよりは、オブジェや写

真作品に添える言葉として、作品集や個展案内に掲載さ

れて来た。美術表現はもちろんとして、そこに付随して

更なるイメージを喚起させるかのような言語表現も、ま

た諸処より注目を集め高評を得る中、5年ほど前に満を

持して刊行されたのが、詩集「直線で描かれたブレヒト

の犬」である。その冒頭を飾る一篇を、ここでは取り上

げてみたい。以下は「アカデミアの庭で」全文である。

 

 日時計の上に残された銀の記憶

 蜥蜴・ロマネスク・人知れず見た白昼の禁忌

 水温(ぬる)み 既知はあらぬ方を指しているというのに

 ヴェネツィアの春雷を私は未だ知らない

 

 この詩を一読しておそらく誰もが魅了されるのは、や

はりその謎めいた言葉の羅列であろう。ただ、言葉をセ

レクトするにあたっての方法論が、前頁の白秋とは全く

異なるのである。白秋の場合、詩を構成するそれぞれの

語句が、共通する明確な指向性を有するのに対し、北川

さんのそれは、敢えて共通項を持たない言葉で構成され

ている。つまり「邪宗門」に登場する言語素材は、幻惑

的な視覚効果を齎す漢語とルビの組み合わせと云い、あ

る種官能的な聴覚効果を齎す朗誦の響きと云い、それら

は全て濃密にして過剰な「異国趣味」と云う共通指向の

下に、選択され集められたものだ。対して北川さんの詩

を構成する素材は、意図的に共通項を外されているかの

ように、一貫する指向性を有しない。その意味で、一見

は特異な詩体が強烈なインパクトを放つ白秋の詩作が、

実は極めてシンプルな意図を基底とするのに対し、北川

さんのそれはより複雑に屈曲した、次元の凡そ異なる方

法論が詩体の基底を貫く、所謂「コラージュ」である。

 

 現在「コラージュ」と云う言葉は、ピカソの発案によ

る「パピエ・コレ」と混同して用いられ、とにかくも画

面に何かを貼り付ければ、何でもかんでもコラージュと

云う事になっているが、本来エルンストの提唱したコラ

ージュとは、技法である前に思想である(正確を期せば

デペイズマンと云う理念の実践として、コラージュと云

う技法が編み出されたのだが、ここでは話をより簡潔に

するために、用語を「コラージュ」に統一したい)。以

前にも記した事だが、コラージュはこのように定義され

るだろうか──無関係な要素を自由に組み合わせる事に

よって、思いも寄らない意外性を生み出し、受け手に混

乱・困惑を齎す方法。この視点で再度振り返ると、前頁

の「邪宗門」が如何なる魅惑を放つのであれ、そのよう

な思考は皆無である事がご理解頂けるかと思う。翻って

北川さんの詩作に眼を移せば、この4行に作者が仕掛け

た見事なコラージュの絡繰りに、私達は改めて瞠目せざ

るを得ない。即ち「日時計の上に残された銀の記憶(こ

の文自体が既にコラージュである)」「蜥蜴」「ロマネ

スク」「人知れず見た白昼の禁忌」と云う前半に列記さ

れた語句は、互いに何の関係性も持たないながら、それ

らが並列し結合される事によって、読者の脳裏には何か

しら言葉にし難い、一種謎めいたイメージが喚起される

だろう。加えて末尾に置かれた「人知れず見た白昼の禁

忌」と云う言葉が、何やら背徳的な秘匿の匂いを、濃密

に香り立たせて已まない。一方、前半がそれぞれ独立し

た文節の併記であったのに対し、後半の2行は一つの文

章として成立しているのだけれど、何度読んでもその意

味する所に辿り着けないもどかしさに、読者は直面する

仕儀となる。それもその筈、この一文を構成する「水温

み」「既知はあらぬ方を指している」「ヴェネツィアの

春雷を私は未だ知らない」と云う各節は、それ自体は各

々がまだ意味を成しているのだが、それらが繋がって組

み合わされた瞬間から、意味は混乱して論理は破綻を来

す。その鍵は、さりげなく挿入された「のに」と云う接

続詞だ。通常それは「空は晴れているのに、雨が降って

いる」と云うように、前後の意味が逆接の関係に有るも

のだが、ここではその前後が一切の関係性を持たない。

それでも何かしらこの一文が意味を成しているように思

えるのは、たぶん「水温み」と云う言葉と「春雷を知ら

ない」と云う一節が、それこそ逆接的に呼応しているか

らだが、そう思わせつつ意味の攪乱を実現させているの

が、この一文の絶妙な仕掛けである。こうして謎めいた

前半部分と、意味の攪乱された後半部分が、連結されて

一連の詩体を成す時、不可思議な幻惑をそこはかとなく

醸成する雰囲気が、その行間や紙背から密やかに滲み出

す様を、読者は有り有りと目にする事になるだろう。そ

して最後に、詩人はこの4行詩に「アカデミアの庭で」

と云うタイトルを冠した。この「アカデミア」と云う言

葉が、ヴェネツィアの名門であるアカデミア美術館を指

すのか、それとも古代ギリシャにプラトンの設立した学

園(=アカデメイア)を指すのか、それは定かではない

が、いずれにしろこのタイトルは明るく健全なイメージ

に満ちて、詩の醸し出す何処か不穏なイメージと、対極

的な佇まいを見せる。つまり、このタイトルと詩の関係

も、一つのコラージュとなっている訳だが、こうして幾

重にも仕掛けられた巧妙なコラージュによって、この詩

は一見シンプルな装いを見せつつも、その実は幻惑的な

イメージの縦横に錯綜する、重層的な言語の迷宮を顕現

するのである。これも以前に掲載した一節だが、北川さ

んの制作手法を的確に言い当てた一文として、延いては

コラージュの本質を巧みに要説したものとして、再度こ

こに引いておきたいと思う。以下はマックス・エルンス

ト著「百頭女」に寄せられた、澁澤龍彦の後書きから。

 

 コラージュとは、エルンストの言うように一種の錬金

 術であって、すでに出来上がっている物の内容を人工

 的に組み換え、その全体的な様相を一変させる技法の

 事である。ちょうど本来の錬金術が、化学的な操作に

 よって物質の内容を組み換え、ある性質の金属(卑金

 属)を、他の金属(貴金属)に変成する事であるよう

 に。(中略)彼は直観的に知っていたのだ、私たちを

 最も不安や驚異の情緒で満たすものは、神の行うよう

 な無からの創造ではなく、かえって既知の物の上に加

 えられた一つの変形、一つの歪曲なのだという事を。

 

 と云う訳で、どうやら今回は分析の真似事を北川さん

の詩に加えただけで、肝心のオブジェには辿り着けない

ままに紙面が尽きそうである。しかしながら北川さんの

制作において、表現手法が版画であれオブジェであれ、

或いは詩作であれ、いずれにせよその根幹を成す理念が

「コラージュ」である事には、些かの揺らぎも見られな

い。エルンスト以降、コラージュはフォトモンタージュ

へと発展し、やがてデジタル制御の時代へと突入して、

必然的にパソコンのディスプレイ上における、簡便にし

て自在な操作が可能となった事から、元来のコラージュ

と云う理念は徐々に忘却され、現在は単なる作画のツー

ルとして用いられるに到っている。言うまでもなく、そ

こにはイメージの衝突や撹乱と云った異化作用は見られ

ず、故にコラージュの精神は疾うに存在しない。対して

北川健次と云う作家は、エルンストを嚆矢とする本来の

コラージュを、凡そ最も純粋に真摯に追求し、徹底して

その可能性を拓き続けて来た、言わばコラージュの原理

主義を貫く存在だ。若い作家はこう問うかも知れない、

なぜ手作業のコラージュに留まるのかと。北川さんは答

えるだろう、それこそが未だ尽きない精神の迷宮へと到

り得る、最深の秘術であるからだと。言わずもがな、北

川さんのオブジェとは、その見事な実証に他ならない。

 

                    (25.05.13)