画廊通信 Vol.269 風景が宿すもの
中佐藤滋展は、今期で10回を数える。2006年が
初回で、以降ほぼ隔年で開催して今回に到る訳だが、い
つの間に10回展を迎える経緯となった。せっかくだか
らこの場を借りて、今までの個展を振り返ってみたい。
初回展 (2006) 「詩人の午後」
2回展 (2008) 「6月の橋の向こうに」
3回展 (2010) 「N氏のカフェ」
4回展 (2012) 「紳士の午睡(シエスタ)」
5回展 (2014) 「男たちのラプソディー」
6回展 (2016) 「ワンス・アポン・ア・タイム」
7回展 (2018) 「曇り空のエトランゼ」
8回展 (2021) 「昼下がりの招待」
9回展 (2023) 「あの頃のように」
10回展 (2025) 「微風(かぜ)の予感」
こうして列記してみると、別に自画自賛をする訳では
ないけれど、何とは無しに「中佐藤滋」という作家の持
ち味が、行間から滲み出して来るような気がする。上に
は開催年だけを記したが、ちなみに開催月を顧みると、
6月が圧倒的に多い。なぜ6月か──と問われれば、ス
ケジュールの調整上、自然にそうなった側面もあるのだ
が、それはさて措き、中佐藤さんには「6月」という月
が、とても似合うように思えるのである。それに関して
は、遥かな昔に記した一文があるので、少々の抜粋をし
てみたい。以下は、第2回展に際しての画廊通信から。
6月という月は、奇妙な月である。夏なのに、ぎらつ
く太陽の強烈な放射が、全てを嫌になるほど明瞭にさ
らけ出す、あの過剰な原色の饗宴を、全く催す意志が
ないかのように、どんよりと雲に覆われた空の下、歩
みを止めた季節の狭間で、灰色の静寂に沈んでいる。
蕭々 (しょうしょう) と降る五月雨に大気は霞み、ひんやり
と吹き渡る梅雨寒の風が、有りと有る世界の熱度を冷
まし、陣取りに明け暮れていた薄汚い野良猫も、いつ
になく悄然ともの思いに佇む。こんな時、人は詩人に
なる。降り続く雨が俗世の塵芥を、いつの間に洗い落
とすのだろうか、何故かしらもの哀しくも透明な想い
が溢れて、目前の風景へと音もなく流れ出す。ふと雲
間から陽光が射して、大地にくっきりと影が作られた
刹那、それは跡形もなく消え去るような儚さでありな
がら、明るくもなければ暗くもない、仄かな薄明に包
まれた大気の中を、軽やかな軌跡を描いて浮遊する。
ある雨上がりの午後、薄曇りの空の下を、柔らかく解
き放たれた心のままに、町外れの運河に沿って歩いて
行くと、そこにはいつの間に、見た事もない古びた橋
が架かっていないとも限らない。橋を渡ると久しく見
なかった野良犬がうろつき、しばらく会えなかった汚
い子供達が、棒を振り回しながら道端を走っている。
目を移せば、世界の始まりから建っていたかのような
古い町工場、煙突からは湿った風に棚引く一条の煙、
道の先には荒れ果てた倉庫が並んで、その下にはメビ
ウスの帯のような廃線が走っているだろう。そして私
は更に町の奥へと歩を進めて、とある路地裏にひっそ
りと隠れたカフェの、朽ちかけた扉を開くのである。
という訳で、17年前の私は貧しいレトリックを駆使
しつつ、6月という季節と中佐藤さんの描く風景を、何
とか結びつけようと苦戦しているようだが、その拙い努
力に免じて、過剰に詩的な言い回しはこの際ご容赦を。
ただ、中佐藤さんの描き出す独特の風景を見ていると、
今でも私は上記のような情景が彷彿と思い浮かんで、い
つしかあの町の懐かしい陋巷へと、足を踏み入れる自分
を見出すのである。現在の若い人が、中佐藤さんの描く
風景を見てどう感じるのかは知らないが、少なくとも私
は同じ時代の空気を知る人間として、そこに或る種の原
風景を感じる者の一人である。履歴から概算すると、中
佐藤さんの少年期は、ちょうど昭和30年代に当たる。
言うまでもなく、日本のみならず世界的な激動の時代で
ある。その頃中佐藤さんの一家は、墨田区界隈に居を構
えていたとの事、従って中佐藤少年は、当時はまだ色濃
く残っていたであろう下町の情緒と、押し寄せる経済成
長が齎す急激な変貌の狭間で、激動する時代の空気を正
に肌で感じつつ、人間形成における最も重要な時期を過
ごした事になる。運河に沿って林立する町工場、煙を吐
く煙突、水路に架かる鉄橋、レトロなトラックや市電等
々、そんな時代の風を胸一杯に吸い込みながら、少年は
陋巷に張り巡らされた、数知れぬ路地を走り回ったのだ
ろう、その辺に幾らでも居た、薄汚い野良猫達と共に。
中佐藤さんの世界──それは上述の通り、画家の育っ
た昭和という時代に明らかな原型があって、詩的発想の
源となっている事は確かなのだが、しかし昭和の風景を
描いただけでは、決して画家独自の表現にはならない。
中佐藤さんの世界に流れるゆったりとした時間感覚は、
あの高度成長期の喧騒とは全く異質なものであるし、そ
こには共通して或る種の静謐感が漂う。してみると、画
家にとっての昭和とはあくまで原風景であって、絵画に
おいてはそれを直接に表現するのではなく、独自の心象
へと熟成させ異化している事が分かる。ならば、画家の
好んで用いる「あの頃」というような言葉は、決して過
去の一時期に限定されるものではないのだろう。それは
過ぎ去った或る時代への、懐旧でもなければ憧憬でもな
い、画家の中で長い時間をかけて抽出され、純化された
「懐かしさ」、言わば純粋な「ノスタルジア」そのもの
の表象なのだと思う。だから中佐藤さんの世界に触れる
人は、たとえその人が画家の生きた時代を知らずとも、
必ずやそれぞれの「あの頃」を、いつしか脳裏に想起し
得るだろう。ならば老若男女を問わず、その風景に見入
る人は、赤錆びた橋を越えて、煙を吐く町工場の脇を抜
け、狭い路地へと分け入ったその先で、きっと巡り会え
る筈だ、誰もが記憶の彼方に持つだろう「あの頃」に。
以前の記録を顧みたら、上記と同じような話を前回も
記していて、自分の貧弱な抽斗に改めてうんざりする思
いだが、中には初めて中佐藤さんに触れる方もいらっし
ゃるだろうから、度重なる重複も無益ではなかろうと、
虚しい弁明をさせて頂く他ない。さて措き、中佐藤さん
の描く世界には、長々と上述した町の風景と共に、もう
一つの重要な風景が在る。ここ数年は、むしろそちらの
方が多く描かれる傾向にあるが、言うまでもなくそれは
「卓上の風景」である。一般には「静物画」と言われる
ジャンルだが、中佐藤さんのそれは、花や瓶や果実がモ
チーフとなる通常の静物画とは、明らかに趣を異にする
ものなので、やはり「卓上の風景」と呼んだ方が妥当な
のだろう。それは往々にして、フライドエッグを乗せた
ままのフライパンや、食べかけのソーセージ料理等が、
無造作に置かれたテーブルである。その脇には水指しが
あり、グラスがあり、ウィスキーボトルがあり、時によ
っては蒸気を上げる薬缶があったりするが、花を活けた
花瓶が置かれるような事は滅多にない。更にはこの卓上
には、飲食に関するモチーフ以外にも、日常の様々なグ
ッズが登場する。今回の案内状にも在るように、玩具や
雑貨類、飛行機や自動車等の模型類、文房具や多種の遊
具等々、何かしら趣味的な匂いを醸すこれらのモチーフ
を見ていると、いつしか絵を前にする私達の脳裏には、
一体この部屋にはどんな人が住んでいるのだろうと、む
しろ画面には描かれてないものへと、想像の翼が広がっ
てゆく。考えてみれば、通常は静物画を見るに際して、
そのように考える事はないだろう。人はあくまでも描か
れた「静物」を見るのであり、その静物の持ち主にまで
考えの及ぶ事はないのだから。しかし、中佐藤さんの静
物には「人」の匂いが濃厚に漂う。描かれたモチーフか
ら推測すると、その大方は男性のようだ。たぶん独身の
内向的な趣味人、あまりもてそうにない夢想家ながら、
決してそれを悲観する訳でもなく……等々、想像は幾ら
でも広がってゆくが、要するに、直接には描かれない彼
もまた、やはり画家の中で長い時間をかけて抽出され熟
成されたあの「ノスタルジア」を、色濃く体現する人物
なのだろう。ちなみに10年ほど前に開催された、日本
橋の不忍画廊における個展に際して、中佐藤さんはこん
な面白いメモを残されている。これも以前に掲載したも
のだが、この機会に今一度、抜粋させて頂きたく思う。
〈 作品に登場する“男”の設定 〉
1. 年齢:40代独身
2. 仕事:無名脚本家
3. 性格:内向的な草食系男子
4. 趣味:色々空想する事
5. 好きな食べ物:ナポリタン、ポテトサラダ
6. 得意な事:不得意な事を
得意な事のように想像する事
7. 苦手な事:思い切り体を動かす事
8. 作品全体を通してのストーリー:無名脚本家の休日
の楽しみは、自身のお宝の古い玩具で遊ぶ事。玩具
や雑貨、その他のガラクタ等を机の上で並び替え、
積み重ね、組立て、又壊し、繰り返し遊んでいる。
しかし空想の世界にあまりにものめり込み過ぎた結
果、自己満足だけの都合の良い妄想ストーリーとな
る。素敵な女性と下心を隠したドライブデート、や
がて欲しい物は全て手に入れ思い通りになる、いつ
ものワンパターンストーリーの脚本が出来上がる。
以上はもちろん、画家特有のユーモアと言おうか、一
種のジョークだろうから、大上段に論ずるようなもので
もないのだが、しかしながら考える程に、これが只の冗
談にも思えなくなって来る。ここに描かれた男は、確か
に冴えない中年男には違いないが、少し視点を換えれば
作家の自画像でもあり、延いては中佐藤さんその人と言
えるのかも知れない。むろん画家ご本人は、上述の設定
とは大きく異なる人なのだが、でも必ずや中佐藤さんの
中には、あの妄想ストーリーで頭が一杯になった、孤独
な脚本家が居る筈だ。彼が玩具や雑貨やガラクタを飽か
ず並び替え、積み重ね、組立て、又壊し、時間を忘れて
遊んでいるように、中佐藤さんもまた孤独な時間をこよ
なく愛し、創造と想像の世界にこそ自らの生きる場所を
見出す、あの「芸術家」と呼ばれる異人種なのだから。
そんな訳で、中佐藤さんの「卓上の風景」を見る時、
そこに描かれてはないが確かに居る人物とは、即ち画家
の分身であり、つまりは中佐藤さん自身に他ならないの
だと思う。ならばその卓上にも、画家の生きたあの町と
同様に「あの頃」が宿る。それは画家の中で長い時間を
かけ、充分に熟成される事によって、決して或る時間や
或る場所に限定される事のない、永遠の「あの頃」へと
純化された時空だ。冒頭に挙げた個展タイトルを借りれ
ば、それは私達に「ワンス・アポン・ア・タイム」と囁
きかける。でもそれは、すぐそこの「6月の橋の向こう
に」在って、懐かしい「微風の予感」を「あの頃のよう
に」孕ませる。そして或る「詩人の午後」に、私達はあ
の遠い日に遊ぶ「曇り空のエトランゼ」となるだろう。
(25.06.11)