サンショクキムネ オオハシ       鉛筆 / 17x11cm
サンショクキムネ オオハシ       鉛筆 / 17x11cm

画廊通信 Vol.270          現代のモノリス

 

 

 つい先日、或る作家と「2001年宇宙の旅」を巡って話していた折りに、不意に「スマホとは現代のモノリスではないか」との考えが浮かんだので、今回はその辺りから話を進めてみたい。周知のように「「2001年宇宙の旅」は、アーサー・C・クラークの原作を元に、奇才スタンリー・キューブリックが監督・製作した、映画史上に不動の足跡を刻む名作である。公開は1968年、つまりは60年近くも前の映画でありながら、今なお古びない斬新な映像・音響と共に、その難解を極めるかのような実験的な作風は、現在も様々な解釈を生み出して尽きない。SF映画の古典として揺るぎない地位を確立しながらも、常に見る者に新たな謎を提示して止まない現状を顧みるに、自ら「古典」としての安住を良しとしない、永遠の問題作とも言うべき作品なのだろう。

 この物語が展開しゆく中で、重要なキーとして折々に

登場するのが、所謂「モノリス」である。例えば映画の

冒頭では、数百万年前と思われる太古の時代を舞台に、

未だ人間には到らない猿人の生活が描かれるのだが、小

さな集団で荒野の岩陰に身を寄せ合い、猛獣や他部族の

襲来に怯えつつ日を送る彼らの前に、或る朝突如巨大な

直方体が出現する。大地に黒々と屹立するその物体は、

高さ4~5メートル程の分厚い石板状の角柱で、猿人達

は恐れ慄きながらも、その謎の角柱=モノリスに触れて

は逃げるという行為を繰り返すが、モノリスはただ黙々

と彼らを睥睨するのみだ。夜が明けて、白骨化した動物

の残骸を前に、何かを考え込む一人の猿人、やがて彼は

太く長い骨を手にして残骸に振り下ろし、硬い頭蓋骨を

粉々に叩き割る、即ち骨を「道具」として使うという新

たな段階へと、足を踏み入れたのである。場面は変わっ

て、再度襲撃して来た他部族に立ち向かう猿人達、以前

の襲来時と異なるのは、相変わらず吠えて威嚇するだけ

の敵に対し、彼らは皆、骨の棍棒を手にしている事だ。

そして攻め入って来た敵を、寄ってたかって棍棒で打ち

のめし、圧倒的な勝利を収めて敵を追い払う、つまり骨

を戦うための道具=武器として用いる事を、彼らは実戦

の中で習得する、それは取りも直さず、猿人が人類へと

飛躍的な進化を遂げる、大いなる黎明の到来であった。

 おそらく遥かな太古に、このような光景は大陸の諸処

で、同時発生的に起こったと思われる。生命の飛躍的な

進化、それは地球の生命史において何度も到来し、現在

に到る壮大な進化の歴史を創り出した訳だが、モノリス

はそんな飛躍的な進化を促す力、ベルクソン流に言えば

「エラン・ヴィタール」の象徴として考え出されたもの

だろう。それをアーサー・C・クラークは物語の中で、

急激な進化を誘因する物体=装置として形象化し、キュ

ーブリックがそれを見事に映像化した訳だ。よってモノ

リスに遭遇して接触した生物は、突如それまでの段階か

ら大きく飛躍して、一段上の新しいフェーズへと進化を

遂げる、それが映画において、猿人が道具を使う事を発

見し、故に人類に繋がる系へと進化した、正にSF的な

顛末である。その後モノリスは月面のクレーターに現れ

たり、或いは漆黒の宇宙空間に巨大な形状で現れたりす

るが、いずれも人類に更なる進化を齎す、神秘的な媒体

として描かれている。このフォルムを脳裏に思い浮かべ

る内に、私はふと、現在誰もが肌身離さず持ち歩き、深

刻な中毒症状を地球規模で拡散させている、ある物品に

酷似する事に気が付いた。外でもない、スマホである。

 

「電車の中でほとんどの人達が、まるで焼き場帰りに遺

族が位牌を握りしめているかの如く、スマホを握りしめ

て夢中で見入っている姿は、もはや魂を抜かれた操り人

形です」──過日、こんなメールを送って来られた方が

居て、その見事な比喩に思わず笑ってしまったのだが、

多かれ少なかれそんな異様な光景を目にして、何らかの

違和感(と言うよりは危機感)を持たれた方は多いので

はないだろうか。電車どころか、歩行時も、運転時も、

食事時も、一人の時ならまだ分かるとしても、楽しく歓

談する筈の会食時や交遊時に到るまで、各々が一言も発

せずに俯いて、スマホの画面に目を落としている光景を

見ていると、これは最早、集団的な精神疾患と言っても

過言ではない、そう思えてしまう。と言ってみたところ

で、そんな環境を日常として来た当人達には、それは意

味不明の戯言としか、感じられないのかも知れないが。

 確かに「スマートフォン」というツールの登場によっ

て、情報伝達は急激な進歩を遂げ、おかげで世の中は格

段と便利になり、その利便性・簡易性の追求は未だ止む

事がないどころか、幾何級数的に拍車が掛かっている状

況だ。これは一見、文明の飛躍的な進化のようにも思え

るが、その実進化は機器側(ハードウェア+ソフトウェ

ア)にのみ該当する現象で、それを用いる側は思考の必

要性を加速度的に失う事から、結果的に知性のレベルは

機器の進化に反比例するかの如く、明らかな劣化を招い

ているのが紛れもない現状だろう、そんな様相を見るに

付け、私はついこんな幻想を思い描くのである──あの

モノリスは、疾うに無数に分裂して地球上の隅々にまで

飛散し、今や手に入るような小型の装置=スマホとなっ

て、人類の進化を大きく揺り動かし続けているのだと。

 かつて映画におけるモノリスは、人類の飛躍的な進化

を促す装置として登場したが、現代のモノリスは、それ

とは全く逆の作用を内包する、つまりは急激な退化を人

類に齎す装置へと変貌したようだ。それが、無数の私的

な端末となって遍く世界に拡散され、更には極めて高度

な人工知能=AIが、あらゆる機器や端末を通して、人

智を急速に侵蝕し続けている事から、必然的に思考や推

論といった知的作用のほとんどを、AIを内蔵したスマ

ホに取って代わられる日が、いずれ間違いなく到来する

だろう、私達がテクノロジーの進化を節操なく享受し、

何の問題意識も持たずに、安易な肯定を続ける限りは。

 

 さてそろそろこの辺りで、視覚芸術の世界に話を絞れ

ば、現代のモノリスを正しく体現するような表現が、最

先端の映像技術を駆使して制作されるデジタル・アート

に他ならない。プロジェクション・マッピング等のコマ

ーシャルなイベントから、チームラボ等に代表される大

規模なインスタレーションまで、その映像表現は広範囲

に及ぶが、いずれにせよそれらは、時に音響も伴う華麗

な演出を特徴としている。以下はあくまでも私見だが、

前述した現代のモノリスを、知性を退化させる趨勢の象

徴だとすれば、今を時めくデジタル・アートとは、言わ

ば感性を退化させる趨勢の、最も顕著な例と言えるだろ

う。それは一見、大掛かりな演出の効果もあり、作者の

感性が多彩な映像表現となって、目前に投影されたかの

ように見える──と言うよりは、制作する側にとってそ

れは、正に視覚的な感性を縦横に駆使した表現なのだろ

う。しかしそれ故にこそ、全てが悉く十全に、むしろ過

剰とも言える程にお膳立てされた空間の中で、見る者は

想像力を全く必要としない環境に、否応なく投げ込まれ

る仕儀となる。むろん当初それは、体験が浅ければ浅い

程に、目を瞠るような驚きを見る者に齎すだろう。しか

しながら、見る側の想像力が不要とされる表現は、リピ

ートを重ねる毎に、その魅力を急速に失うものだ。良く

出来た一級のエンターテインメント映画が、芸術的な感

動を求める者にとって、繰り返しの鑑賞に耐える事が困

難なのは、その原則ゆえである。同様に単なる娯楽を求

める人にとっては、デジタル・アートは十分に魅力ある

メディアであるのかも知れない、しかし娯楽以上のより

深い感性の充足を求める人にとっては、それはやはりエ

ンターテインメントの域を出ない。真の芸術表現とは、

受け手の想像力を常に活き活きと刺激して、限りない増

幅を促し続けて止まないものだ。そのためには、過剰に

過ぎるお膳立ては排除し、隅々にまで完璧な意匠を鏤め

るのではなく、むしろ受け手の想像力が自由に入り込む

事の可能な余地を、敢えて作品の中に残さなければなら

ない。本題に入るのが遅くなったが、そのように考えを

進めた時、見る程に受け手の想像力を刺激して、豊かな

物語を湧き上がらせて尽きない、あの河内ワールドの内

在する本質に、迫る事が出来るように思えるのである。

 

 情報量を最小限に絞る事、それが見る者の想像力を活

性化させる鍵となる。ここにはもう、その例を仔細に挙

げる紙面は無いので省略するが、過去の名画はそこを巧

みに処理したものが多い。前頁のデジタル・アートと河

内さんの表現を比較してみると、そんな情報量の差異が

如実に浮かび上がる。まずは前者が、華麗な色彩をこれ

でもかと駆使した表現であるのに対し、河内さんは全く

色彩を用いない表現である事、この「モノクローム」と

いう特性が、如何に豊潤なイメージを私達に齎すかは、

最早説明の必要も無いだろう。次に言えるのは、前者が

時に壁や天井や床までをも用いた大規模な画面を指向す

るのに対して、河内さんの作品の多くは極めて小さなサ

イズである事、それ故にこそ見る者は、小さな窓の向こ

うに限りなく広がるだろう、別次元を成す世界の奥行き

に、自在に想いを馳せる事が出来るのだと思う。そして

もう一点、これは河内さんのみならず絵画全般に言える

事だが、前者が常に動き続ける「動画」であるのに対し

て、後者は言うまでもなく「静止画」である事、思えば

この「静止」という現象こそが、絵画表現に尽きない魅

力を与え続けて来た。ご存じのように、現代美術の時代

に入って「ビデオ・アート」というジャンルが出現した

が、ウンザリする程に詰まらないものが多いその所以を

尋ねる時、やはりそれが「動画」である事に、大きな要

因が有るのではないか。映画とビデオ作品の違いを論じ

る紙面も最早無いようなので、ここでは端折らせて頂く

が、絵画の否応なく担って来たこの「静止」という制約

が、却って時間の概念を離れた自由度を作品に齎し、そ

れ故に多様なイメージの広がりを見る者に与え続けて来

た事、これは紛れもない事実であろう。以上、情報量を

最小限に絞る事に関して、河内作品に見られる具体例を

3点ほど挙げてみたが、それによって河内さんの描き出

す世界は、変わらず見る者の想像力に活き活きと働きか

けて止まない。しかも河内さんの制作は、全く関連のな

いモチーフを自在に構成する、いわゆる「コラージュ」

をその手法としている。故に事物に附着する意味は撹乱

され、見る者はその不条理の領域に、何の説明もなく投

げ出される、つまりここでは情報量を云々する以前に、

情報は既にその意義を失っているのである。思うに、こ

れほど想像力の余地を残す表現が、他に有るだろうか。

 

 自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ──か

つて茨木のり子という詩人は、こう叫んだ。これは知性

も感性も退化させんとする趨勢に真っ向から抗い、その

享受を厳しく叱咤する言葉だ。テクノロジーという怪物

は、これからも決してその歩みを止めないだろう。だか

らこそ私達に求められるのは、立ち止まる事だ。立ち止

まって「現代のモノリス」の呪縛から離れ、自らの感性

を、想像力を、活き活きと蘇らせる事だ。そうすれば芸

術は、怪物の威力が決して及ばない地平を、私達の前に

必ずや垣間見せる。おそらくはその地で、かつて人間の

精神を大きく飛躍させたあの「2001年のモノリス」

の落とす影を、私達は至る所に見出す事になるだろう。

 

                     (25.07.10)