あなたは誰 (2025)       油彩 / 4F
あなたは誰 (2025)       油彩 / 4F

画廊通信 Vol.271          含羞の向こうに

 

 

「含羞」という言葉がある。いつしか誰の口にも上らなくなって、今や死語に近いような扱いだが、その要因を改めて考えてみると、やはりその言葉を必要とするような心理が、多くの人心において激減している故かと思うのだが、どうだろうか。はにかみ・恥じらい──というのがその語釈だが、つまりは自己を前面に出す事を恥じて良しとしない、いわゆる自己韜晦の姿勢・態度を指す言葉だ。これは何も特別な事ではなく、人間年の功を積めば多かれ少なかれ謙虚になって、自尊よりは謙遜の言葉を口にするようになるものだが、ここで言うのはそのような道徳的精神の在り方ではなく、現代という時代に通底すると思われる、或る種の傾向性である。顧みれば

私達の世代が青春の只中に在った頃、言うまでもなくそ

の時分というものは、含羞・韜晦・謙遜なんていう心理

は欠片も無いアホな年頃だから、私なども自己主張の権

化の如き言動を、全く恥ともせずに日々を生きていた訳

だ(現在もあまり変わって無いのかも知れないが)。今

にして思えば誠に恥ずかしい記憶ばかりだが、それはさ

て措くとして、ほとんどの友人が音楽好きだった事もあ

り、高級ステレオ装置を所有する友人宅によくたむろし

ては、各々がお奨めの最新アルバムを持ち寄って、もう

もうたる紫煙が充満する部屋の中で、ご近所様の迷惑も

顧みない大音量で再生しつつ、ああでもないこうでもな

いと互いに知ったような見解を捲し立てて、音楽談義に

花を咲かせるのが常であった。例えばクラプトンのLP

を皆で堪能している所に、話題の新盤を入手した仲間が

意気揚々とやって来て、「クラプトンもいいけどよお、

今度のベックも凄えぞ、これには痺れたぜ。君ら田舎者

はまだ聴いてねえよな? ギターも神業なんだけど、ド

ラムがまた超絶技巧でさ、参ったね。まあ皆さん、聴い

てくれよ」と、ターンテーブルのレコードを替えようと

した途端、即座に飛び交う品のない罵声、「馬鹿野郎、

クラプトンがまだ終わってねえぞ。勝手に止めるな!」

「うるせえ、後でまた聴けるだろうが」と云った具合、

まあ私共々、見事に教養の足りない連中ではあったけれ

ど、当時の音楽を真剣に聴き合っては、更なる新たな刺

激と感動を、彼らなりに模索していた事だけは確かだ。

 

 昔話はそのぐらいにして、かれこれ10年ほど前から

だろうか、テレビのバラエティ番組等を見ていると、出

演する芸能人の発言に、こんな言い方が散見されるよう

になった。曰く「私、◯◯がメチャメチャ好きで……」

「私、今◯◯にハマっていて……」「私、◯◯は全部聴

いていて……」等々、当初はそんな言い方を何気なく聞

き流していたのだが、事ある毎に耳にしている内に、段

々と鼻に付くようになって来た。言い方自体には特段の

非は無いのだが、それが幾度も繰り返される過程で、徐

々に輪郭を成して来る或るニュアンス、それがつまりは

「今」という時代に通底する傾向性である事に、我知ら

ず気付かされる事になった訳だ。即ち、どの発言にも登

場する「私」と云う主語、それが必ず開口の初めに置か

れると云う共通現象から、ごく自然に滲み出すもの──

むろん文章に主語は必要だが、この場合の主語から感じ

られるニュアンスは、端的に「自己の強調」である。前

述の無教養な少年達と比較すれば、彼らは自分の好きな

音楽を、何とか友人にも共感して欲しかった、その感動

を分かち合いたかった、よって感動の主体である「私」

などと云うものに、考えが及ぶ事は無かったのである。

 翻って現在、「私、◯◯が好きで……」と云った言葉

遣いの裏には、自分の好きなものへの共感を求めるより

は、むしろ自分への共感を求める心理が濃厚に感じられ

る。つまり「◯◯が好きな私を見て!」と云う、潜在的

な自己露出願望である。それが何を源泉とするのかを推

し量れば、やはり世に浸透する一種のナルシシズムに、

その因を見る他ない。むろん多かれ少なかれ、自己愛は

誰の心にも有るものだと思うが、以前は恥の感覚が有っ

た事から、それをあからさまに表明する事は無かった。

対して現在は、パラダイムと云う言葉を持ち出しても過

言ではない程に、それが時代の共通感覚を成している。

故に、現代はナルシシズムの時代である。言動・生活・

思考・表現等々、あらゆる場面にその指向が浸透し、そ

れに応ずるかのようにインスタグラム等の情報ツールが

登場した事から、今や自己露出はSNSを舞台に、百花

繚乱の様相を呈している。冒頭の話に戻れば、かつての

少年達が含羞や韜晦と云った概念と無縁だったのは、単

にアホだった事と、年齢的な未成熟の故であったが、現

代のそれは時代のパラダイムがその要因を成す、つまり

含羞や韜晦と云った言葉は、そもそも辞書に無いのであ

る。美術表現においてもそれは顕著な傾向で、それにつ

いては以前の同紙上で、このように記した事があった。

 

 昨今流行りの人物表現を見ていると、作家の分身と思

 しき人物(多くは少女像である)が、様々な感情を訴

 えているようなパターンが多い。それらの表現から見

 えて来る共通の傾向として、私の哀しみ、私の痛み、

 私の憂い、私の陶酔……、ここには消し難く「私」が

 付き纏う。逆の言い方をすれば、哀しみに暮れる私、

 傷ついている私、憂いに沈む私、私が好きな私……、

 多くの絵が「私を見て」と言っている。思うに、今ほ

 ど自己露出の欲求が安易に肯定された時代もなく、そ

 れによって自己露出を自己表現と履き違える作家が、

 今ほど多くなった時代もないと言えるだろう。たぶん

 古今東西「私を見て」と言った時の「私」が、真の自

 己であったためしがない、多かれ少なかれ、人は自分

 を飾るものだから。逆説的な言い方になるが、ひたす

 ら純粋な表現に徹した時、自己は我知らず表現に溶け

 込んで、むしろ狭隘なパーソナリティーは消滅に向か

 うものだ。言わばこの「無私」とも言える状態に達し

 てなお、そこから否応なく滲み出すもの、それこそが

 真の自己と言えるものではないだろうか。こうして自

 己が「表現」へと昇華されて初めて、それは多くの他

 者にも訴え得る普遍性を持つ。この普遍性を持ち得な

 い限り、それは卑小な自己露出の域を出ないだろう。

 

 前置きが長くなった。平澤さんの個展は今期で19回

を数えるが、この20年を超えるお付き合いから改めて

思うのは、間違いなく「平澤重信」と云う画家は、その

ような現代に蔓延するトレンドとは、全くの対極に位置

する表現者であるという事だ。周知のように平澤さんの

絵画には、猫や鳥を初めとした様々な動物が登場する。

この題材は画家にとって、作風がどう変化しようとも一

貫して変わる事の無い、言わば不動のモチーフとも言え

るもので、当初私はその所以を、平澤さん自身が「農獣

医学部獣医学科卒業」と云うユニークな経歴を持つ事も

あって、生来ご本人が動物好きな故だろうと、単純にそ

う思い做して来た。もちろん、それも要因の一つではあ

るのだろうが、平澤さんの描き出す数々の動物達と触れ

合ってゆく中で、それよりももっと大きな要因が、彼等

の多様な表情や仕草を通して見えて来るように思えた。

ちなみにそれを裏打ちするような事例として、平澤さん

にはむしろ人物像(よく知られた『自転車おじさん』は

その代表格だが)の方を、却って無表情に描く傾向が見

られる事を、ここには挙げておきたい。豊かな表情を見

せる動物達と、対照的に無表情な人間達、この平澤ワー

ルドに特徴的な現象が、いったい何を意味するのかを考

える時、私はそこに画家特有の「含羞」を見る、それは

平澤重信という画家が一貫して内在する、一種のスタン

スのようなものかと思うのだが、如何だろう。これは、

前回も掲載した一節なので繰り返しになってしまうが、

平澤さんの特質を良く表わすように思えるので、再度こ

こに抜粋させて頂きたく思う。以下は過去の拙文から。

 

 私は平澤さんの世界を語るに当たって、自分でも意識

 しないままに「軽やかな哀しみ」というフレーズを、

 今まで何度となく用いて来た。「軽やか」という明る

 いイメージの言葉と「哀しみ」という暗いイメージの

 言葉、通常なら結び付く事の無い相反する言葉が、平

 澤さんの世界では何の違和感もなく結び付く。画面の

 中に有るか無きかに浮遊する哀しみは、本来は暗く重

 いものであるのかも知れないが、平澤さんはそんなリ

 アルな情感を、決して直接的には描かない。即ち、そ

 のような情感を生々しく体現する「人間」よりは、猫

 や鳥と云った「動物」にその情感を移し替えて、より

 間接的な表現へと、想いをしなやかに転化させるので

 ある。そんな過程を経る事で、いつしか情感はその暗

 く重い衣装を脱ぎ捨て、軽やかな詩情となって画面を

 浮遊する。平澤さんの作風を見て、時折「メルヘンよ

 ね」と言う方が居るけれど、その人にはおそらく、大

 切なものが見えていない。そもそもがメルヘンの一言

 で済むような軽さは、その世界の何処にも見当たらな

 い。「軽やか」である事と「軽い」事とは、言葉は似

 ていても凡そ異なる概念だろう。ならば「深い」とい

 う事と「軽やか」である事は、共存出来るだろうか。

 出来ると思う、平澤さんの絵画の中でなら。とても自

 由で軽やかでありながら、何処までも柔らかな深みを

 湛える世界、それが正しく平澤ワールドなのだから。

 

 間接表現としての動物達──彼等は時に強い意志を面

構えに宿し、時に仄かな憂愁の中に放心し、何処からか

響く微かな声に耳を澄まし、時に彼方へと想いを馳せて

佇む。その有りと有る場面から、韜晦のヴェールで直接

には見えないけれど、作者の確かな息遣いが滲み出す様

を、きっと見る人は感じ取るだろう。たぶん平澤さんは

その制作において、前述した「私を見て」と云うような

意識は、露ほども持ち合わせていない。ただ、或る形に

ならない思いに向けて、ひたすらに様々な色を重ね、浮

かび上がるフォルムを捉え、それを何らかの具象へと落

とし込み、時にはそれをまた抽象の境にまで消し去り、

いつ果てるとも知れないそんな手探りの過程で、やがて

しなやかに生きるあの動物達の時空が、多様な表情で描

き出されるのである。このような徹底した自己との対話

は、それを深めれば深めるほど、掘り下げれば掘り下げ

るほど、そこから表面的な自己は遠のいて、言うなれば

「私を見て」と云う時の「私」は、表現と云う行為の中

に消滅する。それをもし「無私」と云うのであれば、お

そらく真の表現は、そこからしか生まれ得ないだろう。

 

 平澤重信展の個展タイトルは、いつも作家自身による

ものだが、昨年のそれは「みて!」と云うものだった。

上述の如く「見て」から最も遠い画家が、あえて「みて

!」と命名したその真意は、何処に有ったのだろう。む

ろんその言葉は作者が発するものではなく、描かれた者

達の叫びだ。ただ、彼らは決して「私を見て」とは言っ

ていない、彼らの生きる時空に、つまりは画面そのもの

に、彼らの言葉は向けられているように思える。見てい

るとそこからは、画家の含羞と韜晦ゆえに幾重にも秘め

られた、無数の記憶の欠片が浮かび上がる。それが作家

個人に限るものではなく、広く見る人自身の記憶でもあ

る事を知る時、私達はいつしか久しく見なかった本来の

「私」を、そこに有り有りと見出すだろう。みて!あな

た自身を──画家はそう言いたかったのかも知れない。

 

                     (25.08.06)