夜の住人 (2026)  アクリル / 35x28cm
夜の住人 (2026)  アクリル / 35x28cm

画廊通信 Vol.282     いつかどこかで

 

 

 私のまだ幼かった時分は、当時の子供なら誰もがそうだったと思うが、常に体中のあちこちに生傷が絶えず、そこに赤チンをベタベタと塗りたくっていたものだ。今の若い方々に「赤チン」と言っても分からないだろうけれど、当時盛んに用いられていた赤色の消毒薬の事で、正式には「マーキュロクロム液」と言う。毒性は弱いながらも成分に有機水銀が含まれていたため、製造中止になってしまった幻の薬液だ。さて措き、何故皆が赤チンだらけだったかと言えば、遊びの9割方が野外で、しかも野球やサッカーといった高尚なスポーツはもう少し大人のやるものだったから、年端の行かない子供はただひ

たすらに日常を、野蛮に暴れ回っていたという状況が、

その直接の原因だったと言える。時代にして昭和40年

前後になるだろうか、その頃は詰まる所、その辺を走り

回ったり転げ回ったり、忍び込んだり潜り込んだり、ぶ

ち壊したり引っ掻き回したり、登ったり飛び降りたりと

いう、誠に教養に欠ける行為を「遊び」と称していた訳

だから、結果として手やら肘やら膝やら脛やら、至る所

に傷を作るのは当然の成り行きであった。御多分に洩れ

ずこの私も、そんな粗暴の日々を過ごしていた訳だが、

夕方新たな負傷をして家に帰り、例の赤チンを塗りたく

っていると、そこへ早めに勤務を終えた父が、たまたま

帰って来たりする。そんな時、決まって父は私の肩をが

っしと抱き、軽く揺さぶりながら「戦友、傷は浅いぞ!

大丈夫、基地は間近だ」、そう言って励ましてくれるの

だった。たぶんそれは、よくあるB級戦争映画の一場面

だったのだろうが、私自身そんな思い出は長らく忘れて

いたので、台詞の出所はついぞ聞かず仕舞いであった。

とも有れ、そう言われる度に私は何だか嬉しくて、終い

には「戦友、傷は浅いぞ!」と言ってもらいたいがため

に、父の前でわざとぶっ倒れて、死んだふりをしたりし

ていた。当時の父との交流を、以前この場に記した事が

あって、せっかくだからこの機会に、その一部を再掲さ

せて頂ければと思う。以下は12年前の画廊通信から。

 

 私は幼少の頃、よく父に色々な物をねだった。大概は

絵本だったが、たまにそれは玩具だったりもした。何し

ろ50年近くも前の話だから、大変にレトロな時代だっ

たかと思うが、そこに彗星の如く登場した画期的なヒー

ローがあって、当時の子供達は忽ちその虜となった。ご

存じ「ウルトラマン」である。当然私もその魅力に取り

付かれ、ある日満を持して我が父に、人形の購入を頼み

込んだ。あの頃一世を風靡した、ソフトビニール製の人

形である。「よし、分かった。明日会社の帰りに買って

てやる」という力強い言葉を信用して、翌日父が帰っ

来る夕方の時間を、私は今か今かと待ち構えた。やが

遠くから50ccバイクのエンジン音が聞こえて来て

当時私の最も好きな音だった)待ち切れずに外へ飛び

出してみたら、荷台にしっかと真新しい箱が結び付けら

れている。早速それを家に運び入れ、にこやかに微笑む

父の前で、矢も盾もたまらず包装紙を剥ぎ取った瞬間、

私は思わず眼を疑った。確かに、ウルトラマンではあっ

た。しかしよりによって、手袋状の指人形だったのであ

る。近年はマペットと言うのだろうか、下から胴体の中

に手を入れて、頭や手を動かせるようになっているあれ

で、それは誠に情けないゴム製の人形だった。それでも

上半身はまあ良い、許せないのは下半身である。足であ

るべき部分が、手を入れるために、ラッパ状のスカート

になっているではないか。「何でウルトラマンがスカー

穿いてんだよお!」、こう叫んだ後はもう抑制が利か

なくなり、ヘナヘナしたゴム人形を思いっ切り放り投げ

ると、私はあまりの怒りに暴れながら泣き喚いた。きっ

と父は、そんな私を不憫に思ってくれたのだろう、「分

かった。ちゃんと足の有るやつがいいんだな。明日また

買って来てやるから」と、固く約束してくれたのだった

が、さて翌日も夕方となり、約束通り買って来てくれた

人形は、正しく待望のソフトビニール製で、確かに足も

有るには有ったのである。ただ、何をどう間違えたのか

未だに理解し難いのだが、何故かそれは「大魔神」であ

った。まあ、大魔神も嫌いでは無かったものだから、そ

れで良しという事にはしたのだったが、絵本の場合もそ

れと同様の事は多々あって、特に「ウィリアム・テル」

を買って来てくれと念には念を入れて頼んだ筈が「ロビ

ンフッド」だった時は、指人形事件以上に爆発的な勢い

で怒りまくった。でも仕方なく読んでみたらとても面白

かったので、以降は愛読書の一つになったのだけれど。

 

……こんな他愛もない話ではあったが、後日談を一つ。

実は、この画廊通信を書いて数日後に、父が画廊を訪ね

て来たのである。暫しの歓談をした後にふと思い出して

「オヤジの事を書いたからさ、暇な時にでも読んでよ」

と、私はテーブルの上にあった画廊通信を一部、父に渡

したのだった。その日の夕刻、早速電話が掛かって来た

のだが、その時の思いも寄らない言葉は、今でも忘れら

れない。電話口で父は、こう語ったのである──「帰り

の電車の中で、読ませてもらったよ。いやあ、君には悪

い事をしたなあ。あんな事があったのはすっかり忘れて

たんだけど、あれじゃあ君も怒るよなあ。俺もあの頃は

仕事で一杯一杯でさ、ちゃんと君の言った事を聞いてあ

げられなかったんだな。いやあ、ホントに悪かった」、

言うまでもない事だが、私はこれを笑い話として書いた

のである。しかも何十年も昔の、多少は脚色も入れた話

なのに、それを大真面目に受け取って謝られるなんて、

考えもしない事ではないか。父はそういう人であった。

 

 失礼、いつもの事ではあるが、無益な話をまた長々と

書き連ねてしまった。何故こんな話になったのかと言え

ば、新井さんから送られて来た新作画像を見ていたら、

いつしか遥かな幼少の記憶が、取り止めもなく甦って来

たからだ。別段作品の中に、昭和の悪ガキが描かれてい

た訳でもないのだが、何故かしらその画面から滲み出す

空気感が、そこはかとないノスタルジーを喚起するので

ある。以前からご覧頂いているお客様は、良くご存じの

事と思うのだが、当初「新井知生」という画家は、抽象

表現の最前衛を体現するアーティストであった。故に描

かれるフォルムは、純粋な抽象形態を主とするものであ

ったが、近年のコロナ禍を境にして、具象的なモチーフ

を記号化したようなフォルムが、画面の諸処を飾るよ

になった。この著しい変化に関しては、私の知ったよう

な見解よりは、画家自身の言葉を掲載させて頂くのが最

良かと思う。という訳で、以下は新井さんの手記から。

 

 具体的に言うと、今まで画面を引っ掻いて出来たライ

ンの窪みに絵具を埋め込み、その跡を手がかりに画面を

作るような事をしてきましたが(なるべく自己主張をせ

ずに、偶然できたものを用いる手法です)、その彫りこ

だラインが徐々に集まって、何かに見える形になって

ました。五角形になると家のように見え、Y字型では

木、曲線が一回りすれば池というように、身近なものの

イメージに繋がってきたのです。そして、それらが組み

合わさることで単純化された情景が画面に作られ、そこ

に物語性が出てきました。これは、そうしようと意図し

たものではなく、自分が描く時間を楽しく過ごそうとい

う気持ちが、こうした画面になっていったのでしょう。

 今、自分なりにそうかも知れないと思うことは、そう

した自分でもつかみきれない意識の流れの中で、自分の

生きた時間や記憶が自然と堆積されるのかも知れないと

言うことです。長く生きてきたからでしょうか、人間は

『今・ここ』だけに生きている──ということも正しい

のなら、『今・ここ』だけで生きているのではなく『今

ではないいつか・ここではないどこか』といつも共にい

る──というのも真実ではないか、むしろそのことで存

在たり得ているのではないかと思うようになりました

また、陳腐な言い方かも知れませんが、人生を慈しむと

言うことは、そうした自分が過ごした日々をかけがえの

ないものとして思い浮かべることではないかと思うよう

になりました。そんなことと共に、画面に少しずつモノ

形のようなものが、生まれてきたのかも知れません。

ただ、それは自分の昔話をすることでも、昔あった場面

を絵にすることでもありません。作品の鑑賞者自らの記

憶の断片が、おぼろげに浮かび上がるものでありたいと

思っています。私の作品から鑑賞する人々が、自身の記

憶の深淵へとたどり着いて、それぞれの人生の豊かさと

大切さを、そこから感じていただければと思うのです。

 制作では、絵具を塗ったり削ったりして出てきた画面

に「うん、うん」とうなずきながら、「そうしたらこう

かな」とか「これではダメか」とか、心の中でつぶやき

ながら、画面との会話を楽しんでいます。その先作品が

どうなるか自分でもわからないので、完成させることは

あまり意識しません。作品の内容は、その対話の時間の

中で時空を越えて、あの時のあの場所に旅したり、また

今に戻ってきたりしてできたものだと思います。画面と

対話すること、それは自分と対話し、また世界と対話す

ることでもあるのでしょう。あのコロナ禍の時は、対外

的な接触が制限され、仕事場に引きこもるような形で制

作をすることとなりましたが、今やその時間を過ごすこ

とが、自分が生きている事の最も豊かな証しなのです。

 

 以上の言葉に、現在の作風は語り尽くされているだろ

う。少々の補足(蛇足と言うべきか)を加えるのなら、

元来新井さんのテーマは「時空」に有ったのだと思う。

時空という言葉が、時間と空間の総称であるのなら、以

前は表現の眼目が「空間」に置かれていたと言える。そ

れは画家自身が「自我と自然(宇宙)が融解するような

絵画空間を意図した」と語るように、私という内在空間

と広大な外在空間の間を探る、先鋭的な試みであった。

そして現在、画家の視点はいつしか「時間」へと移行し

て、内在する時間=記憶こそが表現の眼目となるに到っ

た、それが近年の変化の根源的な要因ではなかろうか。

また、記憶が常に具象を伴う事を思えば、画面がより具

象的な傾向を帯びるのも、当然の成り行きだったのかも

知れない。上述の手記で新井さんは、今回の作品で夜の

情景が多くなった事に関して、世の情勢が余りに暗い事

がその一因だろうかと、そんな事も語られていたが、そ

れよりも私は端的に、記憶が鮮やかに解き放たれるのは

「夜」という時間に尽きるからだと思う。往年の昭和歌

謡ではないけれど、正しく「夢は夜開く」ものだから。

 

 私事ながら、今春父が他界した。94歳であった。最

期には立ち会えなかったが、とても安らかであったと言

う。父が逝って数日が流れた頃、未明に目覚めて仕事の

行く末を思い、暗澹として眠れなくなった。この歳にな

って恥ずかしい話だが、未だにこんな事がある。独り殺

伐として暗い天井を見ていたら、不意に久しく忘れてい

た懐かしい言葉が、闇の向こうから聞こえたような気が

した。むろん、それで何が解決する訳でもなかったが、

その声は青ざめた私の心に、温かな灯火を宿した。それ

は若き日の父が良く口にしていた、あのお決まりの台詞

だった。父は言っていた、見えない手で私を揺さぶりな

がら──戦友、傷は浅いぞ! 大丈夫、基地は間近だ。

 

                    (26.06.30)