思い出を紡ぐ (2014)          混合技法・コラージュ / 4F
思い出を紡ぐ (2014)          混合技法・コラージュ / 4F

画廊通信 Vol.134             見る人へ



 SF映画にはあまり興味の無い方なのだが、かつて観た「未知との遭遇」という映画は、強く印象に残った作品だった。スティーブン・スピルバーグ監督による映画で、資料によると日本では1978年公開とあるから、もう36年も前の作品である。まあ、小難しい精神性など皆無、娯楽映画の極みを行くような作品には違いないが、それにしても特撮による映像美の限りを尽くした、正に極上のエンターテインメント映画だったと思う。

 若い電気技師の主人公が、ある夜思いもかけず、鮮やかに発行する不思議な飛行物体と遭遇する。その強烈な閃光を浴びて以降、彼はUFOに身も心も奪われてしまい、有らん限りの目撃情報を収集して、脳裏に何故かしら浮んで来るあるフォルム(形)を、仕事も家族もそっ

ちのけで憑かれたように追い求める。一方、他の地方に

住む幼い少年も、深夜不思議な遭遇に巻き込まれ、図ら

ずもUFOに連れ去られてしまう。それを助けようとし

た母も閃光を浴びて、以降は電気技師と同様のフォルム

を、自分でも分らないままに描き始める。両者共に、奇

妙な形の山を思わせるようなフォルム。やがて二人は、

謎の体験を追い求める途上で運命的に出会い、政府に選

抜された優秀な科学者のチームが、極秘のプロジェクト

を進めている事を知る。それは何と、異星人との接触を

目的とした、人類史上例の無い計画であった。接触に指

定された場所の近隣住人が、強制的に退去させられる中

を、二人はあらゆる難を越えてその場所(山)へと忍び

込む。そのデヴィルス・タワーと呼ばれる特殊な形の山

こそ、二人が自身も判然としないままに探し求めた、あ

のフォルムの正体であった。結局彼等は、UFOからの

信号を直観的に受信したが故に、異星人の指定した山容

を明確に再現し得た、特殊な交感能力の持ち主だったの

である。そして二人は接近遭遇の準備が成された山腹に

降り立ち、科学者と異星人による、音と光に溢れた世紀

のコンタクト・ショーを目撃する。やがてデヴィルス・

タワーの背後から大地を揺るがせて、想像を絶する巨大

なマザー・シップが、目も眩むようなイルミネーション

をまとって、ゆっくりとその全容を現す……。


 長々とストーリーを記してしまったが、どうしてこん

な話をしているのかと言えば、画廊に足を運んでくれる

お客様の事を考えるに付け、この映画の主人公達に何と

似ているのかという思いを、新たにするからである。主

人公の電気技師も、子供を連れ去られた母親も、思いも

寄らず未知からのシグナルを受信して、その結果どうし

ても脳裏に浮んでしまうフォルムを追い求め、あげくに

そのフォルム通りの山へと辿り着いて、遂に念願の異星

人とコンタクトを果す。即ち、彼等は何か否応の無い力

に導かれて、自身思ってもみなかったような出会いへと

到るのだが、彼等を自ずからそのように然らしめた根本

の要因は、彼等だけが持つ高度な受信能力、鋭敏な交感

能力だったのである。こんな比喩もどうかとは思うけれ

ど、私は常々、絵を見る人、そして絵を解する人、延い

ては絵を買う人とは、正にそんな常人には無い特殊な能

力を、我知らず持ち合せてしまった人だと思っている。

 絵画に限らず芸術表現と言われるものは、まずはそれ

を創造した作家の才能によるものである事は、説明する

までもない自明の理だが、しかし私は、それを受け取る

側の感性、つまりは作品を見て共感すると云う心の働き

も、また才能に他ならないと思っている。片や作家と云

う送り手、片やその作品を見る受け手、私の位置する所

はちょうどその中間である事から、自然私の場所からは

両者が良く見える訳だが、長年に亘ってここに留まり続

ける内に、私はそう確信するに到った。もう一度言わせ

てもらえば、芸術表現と云う行為が才能であるのなら、

それを見ると云う行為もまた才能である。だからどんな

に優れた芸術作品であれ、見る才能の無い受け手には何

一つ伝わらない。どんなに高度な送信機で、どんなに強

力な電波を発信しても、受信機の感度が低くては良質の

受信は望めない、同じ作品を同じ条件で見ても、感じる

人と感じない人の居る所以である。送り手の研ぎ澄まさ

れた感性、受け手の磨き抜かれた感性、その両者の才能

がぶつかり合った所に、初めて「芸術」と云う場が生れ

「感動」と云う精神が立ち上がるのだろう。


 およそものが解るというほど不可思議な事実はない。

解るという事には無数の階段があるのである。人生が退

屈だとはボードレールも言うし、会社員も言うのである

──これは小林秀雄の言葉だが、同様に「見る」と云う

行為もまた様々である。例せば、テレビの美術番組等で

放映された展示会に、早速翌朝には勢い込んで馳せ参じ

て、何時間もの行列をものともせずに並ぶあの人達もま

た、絵を「見に」行っているには違いない。生涯学習と

やらで、生半尺な俄知識で頭を一杯にしている人、テレ

ビのコメンテーター辺りの半可通な発言を、そのまま鵜

呑みに信じ込んでいる人、美術館内に設置されたヘッド

フォンを被って、いい加減な作品解説に聞き耳を立てて

いる人、そう、確かにそんな人々の眼にも、絵は映って

はいるのだろう、しかし、残念ながらその心には何一つ

映ってはいないと思う。何故ならば、知識や学問を司る

左脳的な理性領域には、そもそも芸術を感知する機能が

無いからである。芸術の生まれ出づる所、そしてそれを

感知する所とは、やはり直観や情動が絶えずイキイキと

脈動する、右脳的な感性の領域なのである。

 だから、どんなにお勉強を重ねたって、決して絵は見

えて来ない。どんなに絵画理論を学び、美術史に精通し

て、画家の生涯を研究したところで、その人の心には、

やはり何も映らないままだろう。絵だけに非ず、およそ

芸術と呼ばれるものは全て、徹頭徹尾「学んで知る」も

のではなく「感じて得る」ものであるからだ。偉そうな

物言いで申し訳ないが、昨今の解説者や学芸員諸氏は、

その根幹の原理を履き違えてはいないだろうか。私がも

し何処かの美術館の学芸員だったら、まずは全てのヘッ

ドフォンを廃棄する。そんなものは、百害あって一利も

ない。それから、全ての解説キャプションを取り去る。

図録も会場内には一冊も置かない。要するに、絵を「見

る」と云う行為に先入観を与える知識や、一方的な解釈

を押し付ける情報は、全て奇麗さっぱりと駆逐する。会

場にある文字は、作者名と作品名ぐらい、こうして余計

な説明の類いを徹底して排除した結果、純粋無碍に絵を

見る事が出来たら、どんなにか気持ちの良い事だろう。

おそらく、頭が夾雑を排してカラッポになった時、感性

は俄然イキイキと働き始めるのである。


 絵を「見る」のには修練が要る。眼を鍛えなければな

 らないのだ。この頃になってやっと、私はそれに気が

 付いた。では、眼を鍛えるとはどうすることか。私の

 場合それは、眼を頭から切り離すことだと思う。批評

 家に借りた眼鏡を捨てて、だいぶ乱視が進んでいると

 はいえ、思い切って自分の裸の眼を使うこと。考えず

 に見る事に徹すること、まずそこから始めるのだ。

        洲之内徹「セザンヌの塗り残し」から


 真に「見る」事の出来る人、ひたすらに「見る」と云

う事を知る人、そんな「見る達人」の磨き抜かれた感性

にこそ、舟山一男という特異な作家の描き出す作品は、

千変万化の多様な像を結ぶだろう。それは、内奥のスク

リーンにあくまでも密やかに投影されるだろうが、そこ

に浮び上がる幾多の肖像や風景は、見る者に鮮やかな心

象を喚起させる。むろんそれは、万人に受ける八方美人

的な絵画とは、正しく対極に位置するものだから、例え

ば今流行りの写実的美人画を好むような向きには、全く

アピールしないだろうと思う。元より、そんな向きにア

ピールする絵画など金輪際まっぴら御免だから、それは

それで却って誇らしい事ではあるけれど。事実、古今東

西誰が見ても共感し讃嘆する名画なんて、未だかつて聞

いた事が無い。一流の優れた作品ほど、豊かに「感じ取

る」人の居る代わりに、一方ではその数十倍もの「感じ

ない」人も存在する。真の芸術とはそのようなものだ。

何故ならそれは、前述したように「見る」「感じる」と

いう行為もまた、一つの才能に他ならないものだから。

よって、優れた芸術家からの送信は、それに見合った優

れた受け手にしか受信出来ない。だからある意味、優れ

た芸術であるほど、それは受け手を選ぶ事にもなるのだ

ろう。舟山さんの芸術は、正にそんな選ばれた受け手に

こそ、強烈な印象を刻印するものではないだろうか。

 今回は長々と「見る」事について書かせて頂いたのだ

から、それこそ余計な解釈じみた話は蛇足と云うものだ

ろう。踊り娘であれ、道化師であれ、村の教会であれ、

街の遠景であれ、等しく「見る」事に徹すれば、必ずそ

れらは音にはならない密やかな声で、豊かな物語を語り

始める。これは何も、詩的形容でそんな言い方をしてい

る訳ではない。実際に小さな画面の前に立って、独り静

かに絵と対峙すれば、自ずから解る事だ。まあ、画廊に

足を踏み入れれば、何やら知ったような事を口走る店主

が寄って来るやも知れないが、どうせ何の危険性も無い

のだからそれはさりげなく無視をして、額と云う窓の中

にたたずむ見知らぬアルルカン達に、是非向き合ってみ

て欲しい。さすれば彼等はきっと未知からの声を、見る

者にそっと聞かせてくれるだろう。それはもしや古い詩

人の綴った、こんな秘めやかなソネットかも知れない。


 ささやかな地異は そのかたみに

 灰を降らした この村に ひとしきり

 灰はかなしい追憶のやうに 音立てて

 樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた


 その夜 月は明るかつたが 私は人と窓にもたれて

 語りあつた(この窓からは山の姿が見えた)

 部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と

 よくひびく笑ひ声が溢れてゐた


 ── 人の心を知ることは …… 人の心とは ……

 私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を

 把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた


 いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか

 火の山の物語と …… また幾夜さかは 果して夢に

 その夜習つたエリザベートの物語を織つた

           ~ 立原道造「はじめてのものに」


 さて「未知との遭遇」の中で、異星人からのシグナル

をキャッチして、デヴィルス・タワーに引き寄せられた

主人公の如く、舟山さんからのシグナルを鋭敏に受信さ

れて、画廊に赴かれるお客様は必ずいらっしゃる事と思

う。デヴィルス・タワー(悪魔の塔)と云う比喩は、何

やら示唆的で気にくわないが、まあそれはさておいて、

見に来られた方の眼を、感性を、私は全面的に支持した

い。そのような人の心に舟山さんの新作は、今回も間違

いなく魅惑の像を映してくれるだろう。早くも、今年最

後の展示会となった。慌ただしい師走ではあるけれど、

是非とも皆様この機会に、素晴らしき未知との遭遇を。


                    (14.11.25)